↑ KOUHAKUの店内。料理もワインも素晴らしい。
店員さんのサービスも一流。
いつも満員なのだが、待つ価値あり!
昨日は、
阪急紀伊国屋裏のKOUHAKUというレストランで、
美味しいワインやイタリアの創作料理をつまみながら、
関西出身の、とある美人で才女なコース兄弟と、
夜遅くまで語り合い、おおいに盛り上がった。
彼女とは、
ハレ師匠のもとでコース理論を共に学んだ仲で、
会うのは一年半ぶりくらいか。
その中で、聖霊を信頼するとは、
兄弟から差し出される全てのパフォーマンスや、
それに対して湧き出してくる全ての感情を、
〝聖霊〟として認識することなんだ、という話になった。
そうなると、見えているものすべてが聖霊となり、
聖霊でないものなどひとつもない、ということになる。
出てくるものにただ信頼を置いていくだけだ。
たとえ、今、どんなに赦し難い事態が起こっていようとも、
たとえ、今、どんなに誰かを憎んでいたとしても、
たとえ、今、どんなに何かを恐れていても、
自分をこれらの苦しみから救い出してくれるのは、
コースでも、どこかの教師でも、ましてや自分でもない。
それは、いま、自分の眼前で、
「ほら、赦せよ。これがお前だよ。」とばかりに、
強烈なパフォーマンスを見せてくれている、
最も忌み嫌い、苦手としている兄弟こそが、
自分を解放し、故郷へと導いてくれる存在であるのだ。
そういう意味で、僕たちは、全ての兄弟に恩義がある。
だから、もし、
そういう自分を苦しめる人や状況があるのなら、
安心して相手に信を置いて、
思い切り、怒るなり、怖がるなり、苦しむなりすればいい。
赦すのが無理なのなら、なおさらのこと、
信を置いた相手を心ゆくまで恐れ、怒ればよいのだ。
しかし、ひとつだけ覚えておきたいのは、
その相手なしでは、絶対に、絶対に、絶対に、
自分は父が待つ故郷へは戻れないということだ。
だから、聖霊を智ったら最後、どうあがいたって、
救われるしかない。
最後は、兄弟たちに感謝するしかない日が来るのだ。
僕がそんな話をしたとき、一緒に飲んでいた彼女が、
「それほどの赦しの対象になる人なんて、
今のわたしには、おらへんわあ。」
と言った。
それでも、深く見つめてゆくと、
大勢の人がいる場所、もたもたしている人、虫、
ある特定の人種、政治家、近所の人、など色々出てくる。
なので、強烈な苦しみ(赦しの対象)がある人というのは、
コースの中でも、
〝最短一気終了コース〟を選択していると言える。
だから、そこに信を置いていれば、
今の自分がどんな状態であってもカンケーない。
バシバシやられているうち、
「ああ、女王様~!もっと~!」となるかもしれない。
それから、コースを始める初期段階で、ハレ師匠から、
コースの理論を徹底的に叩き込まれたことは、
本当にラッキーだったと、彼女と確認し合った。
加藤美代子氏の『思考の逆転』に出てくる、
自己概念A、B、Cのくだりも、決断の主体についても、
3013年ごろにはハレ師匠から習得済みだったし、
どのような仕組みで〝取り消し〟が起こるのか、
実相世界と静寂の意識の違いや、ハートについてなど、
必要な理論は最初の二年で全て叩き込まれた感がある。
厳しかったけど、今となれば感謝しかない。
ああ、ハレ師匠、プリーズ、カムバックッ!
そして、おとといは、オアシムのウェブシェア会だった。
その中で、赦し方に違いはあるのか、
ということがトピックとして挙がった。
例えば、
同じ赦しでも、僕の様に外側へ投影された世界を、
自分の心の中(決断の主体の世界/ベールの向こう側)
と観て、そこに顕われ出たものを、直接赦すやり方や、
内側に感じている恐れや罪悪感を観てゆくことで、
神から離れた、という決断の主体まで戻り、
それを聖霊へと明け渡すやり方など、
赦し方も人それぞれ、微妙に違っていたりする。
それでも、共通して言えることは、
赦すのは、罪を犯したという想い込み、であり、
罪悪感そのものではない、ということだ。
また、
デイヴィッドのコミュニティでは赦しをあまり重要視しない。
なぜなら、罪を犯したという想い込みはすでに訂正され、
故に、赦しはもう完結されている、という観点から、
聖霊のガイダンスに従って行動してゆくからだ。
しかし、ワプニック氏の理論では赦しが最重要視される。
僕の場合、
まだまだ故郷へは帰りたくない、ということを、
先の〝東京帰任事件〟で認識済みなので、
聖霊の中で赦しを行なってゆくことは必須事項だ。
しっかーし!
ウェブシェア会では、
なんかボーっとしていて、言いそびれたのだが、
たとえ、内へと向かう赦しこそが大切だ、
と、全世界のコース兄弟が言っていたとしても、
自分はちょっと…、と思ったら、それが正しい。
そんな修行のような赦しは、ちょっとシンドイ、
今のこの苦しみの中で、赦しなんて無理、
自分は聖霊のガイダンスに頼った方が平安だ、
と、自分が思ったのなら、それが正しいのだ。
どんなに苦しんだって、悪態をついたって大丈夫、
眼前に現れる聖霊たち、普通の友人や、家族や、同僚や、
路上で出会う様々な見知らぬ人たちが、
きっと、正しい帰路へと導いてくれると思うから。