香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

兄貴、きたぁーっ!

自分に関わる全ての兄弟たちからのメッセージ、

例えば、同僚や、友人や、家族や、店員さんや、

たまたま隣り合わせたひとなど通して受け取る

何気ない言葉こそが聖霊の声だったのだ、と、

遅ればせながら、ようやく理解が起きてきた。


コースを実践しだして、まだ日が浅かったころ、

「自分で決めようとせず、まず聖霊に訊いて下さい。」

とハレ師匠に言われるたび、まるで神頼みのように、

内なる聖霊にいろいろと尋ねまくっていた。


あの苦手な上司を見て出てくるびゅんんびゅんを、

どうやって明け渡せばいいですか、から始まり、

この出来事にどう対処すればいいですか、や、

果ては、町内会の会費200円を払うべきでしょうか、

といったことまで、いちいち聖霊に訊いていた。

が、だからといって、

こうこうこうしなさい、というように,

具体的な聖霊の声が聞こえてくるわけでもなく、

稲妻のように、ぴぴっと直感が走るわけでもない。

聖霊を選んだ後に〝ふっ〟と出てくる想いが

聖霊の声だ、と信じてみても「聖霊、きたぁーっ!」

という感じにはならない。


しかし、

それでも、聖霊を選び続けてここまで実践してくると、

兄弟は自分が外へと投げ捨てた神なのだから、

その兄弟を信頼することが神を信頼することになり、

結果、兄弟に聖霊が宿っていることに気づいてゆく。

またそのとき初めて、聖霊が兄弟を通して、

ずっと自分に語りかけてくれていたことを智るのだ。


そういう意味で、

自分の前に顕れる兄弟には大きな恩義がある。

それが、コース兄弟同士となればなおさらだ。

よく、コース兄弟同士でシェアなどをしていると、

「それは、ちょっとちがうよおー!」と、

無性に相手のシェアを批判したくなる時がある。

しかし、批判をすれば、それは攻撃となりエゴだ、

という想いがあるので、そのドロドロをぐっと抑え、

ひとり密かに、自分の中だけで赦そうとする。

それで、表面はニコニコ、穏やかに接しながらも、

心の中は赦せない自分でドロドロだったりする。


まあ、批判や憎悪を表現して赦すにせよ、

心の中だけで赦すにせよ、結局は、

心の中で起こっていることをただ認識してゆく、

だけなのだろうが、それでもちょっと待った、である。


そんなの、兄弟をちっとも信頼していない。

ましてや相手は赦しを知っているコース兄弟である。

それって、自分だけが赦されようとしているだけで、

全然与えようとしていない。

別に、言いたいことを何でも吐き出せ、

と言っているのではないが、

問題は、言いたいけどエゴだからやめる、

何を言い返されるか、結果が怖いからやめる、

という、その心のカラクリのほうにあると思うのだ。


親切や、優しい言葉や、笑顔、と同じくらい、

怒りや、攻撃や、批判のように見えるものでさえ、

兄弟から与えられる大切な贈り物なのだ。

故に、全幅の信を置くコース兄弟からの言葉は、

どんな言葉も、聖霊の言葉であり、真実である。

だから、たとえ、これってエゴじゃないのか、

と思えることであっても、言いたければ、

全幅の信頼を置く兄弟に表現していい。

第一、自分の発した言葉がエゴかどうかなんて、

そんなの誰にも分らないではないか。


聖霊は周囲にいる兄弟を通して語りかけている、

と同時に、自分の肉体を通して、

兄弟に語りかけてもいる。


そして最後に、

攻撃のように見えていたもの、

批判のように見えていたものは、

これまで自分がそう思い込んでいただけで、

本当は〝神だった〟ことを知ることになるのだ。