↑ ケリーとふぁちゃん。
先週金曜日、もうすぐ年越し(旧正月)ということで、
香港の国境を歩いて抜けた中国側の街、深圳で、
香港事務所と中国側スタッフの合同忘年会を行なった。
ふぁちゃんが香港側へ来られないため、
中国での開催となった。
また、今回はケリーの送別会も兼ねていた。
みんなでワイワイガヤガヤ、楽しい宴会となった。
酔っぱらって家に着いたら、日付が変わっていた。
まあ、そんなこんなで、今年もいろいろあり、
全部、記憶となって消えて行ってしまったが、
やっぱり働くって楽しいな。
来年はどんな兄弟に会えるかも楽しみ!
というわけで、ここへ来て、
兄弟たちに対するキュンキュンは増すばかりである。
どんな人に対しても〝好きだよ〟が溢れ出てくる。
あまりに有り難いので、誰かに会うたび、
合掌しながら軽く頭を下げたりするほどだ。
もちろん、相手を驚かせないよう、
心の中だけで手を合わせることもあるが、
大抵は、実際に合掌しながら頭を下げている。
それはもう、同僚や友人はもちろんのこと、
電車に乗り合わせた人やお店の店員さん、
喫茶店で隣に座っている人に至るまで、
あらゆる人にそうやっている、というか、したくなる。
やがて、自分の見ている心の中(現実世界)が、
神で満たされているのを感じはじめる。
神の子には、そこが幻想の世界であってさえ、
神を反映させるだけの力があったのだ、
と、改めて思い知らされる。
まあ、よくよく考えてみれば、
自分はもともと神の子なのだから、
その神の子が手を合わせたものに神が宿るのは、
当然と言えば当然である。
別に合掌など、しても、しなくてもいいのだが、
それは謂わば、
相手の中にある正しい心の部分を選び、見つめる、
自分流の儀式でもある。
そして、
〝エゴが表面で私に見せているウソは信じない。
エゴに神の愛を破壊する力などない。
そんな力はお前(自我)にはない。
なぜなら、お前など存在せず、
故に、お前にはなにも起こせない。〟
と、相手の肉体の表面にべちゃっと貼りついて、
ぴこぴこやっているエゴの心を笑い飛ばしてゆく。
↑ 香港から中国側へ国境を渡った途端、
建物の色彩や人々の顔つきがガラッと変わる。
あやこさん流に言えば「周波数が変わった。」
といったところか。
そんなことをしていると、
嫌な人が一人もいなくなってしまった。
多分、相手は何にも変わっていないのだろうが、
先日の〝住所抹消事件〟の日本人顧問のような、
一見、攻撃してくるように感じられる人も、
笑顔で接してくれる人も、一様に有り難い。
以前は 「キミもう辞めたら?」などと、
部下に暴言を吐いていたあのコンババ管理部長も、
ある時を境に、急に敬語を使い始めたりしたので、
前回の東京出張の折、一緒にメシを食ったときに、
「最近、人との接し方を変えました?」と訊いたところ、
「いや別に。僕は前から敬語を使ってましたよ。」
と言われた。
会社にいてこの状況は、ある意味、奇跡だと思う。
ひょっとしてこれが〝愛の延長〟なのか?
あなたは兄弟に差し出すものを聖霊に差し出している
と、コースのどこかに書いてあったが、
自分が兄弟に差し出す以上のものを、
聖霊兄貴は与えることができない。
なので、聖霊兄貴とつながりたければ、
兄弟を兄貴と同じものとして接するしかない。
なぜなら、実際それは同じものなのだから…。