感情には恐怖と愛の二つしかない、と定義される。
他の全ての感情は、この二つから派生したもので、
故に、僕たちの知覚は常に、恐怖か、愛かの、
どちらかに振れている、ということになる。
ホラー映画や相撲部屋のかわいがりのように、
一目で分かる恐怖もあれば、
「我が子のために…」や「この事だけは…」のように、
一見愛のように見えているが、実は恐怖からきている
というようなものまで、いろいろだ。
さしずめ、この恐怖と愛が幻想世界に投影された
結果が、正義と平安、だと言える。
逆説的に言えば、
自分がいま正義を主張(自分が正しい)しているか、
平安を求めているか(聖霊が正しい)を見ることで、
その感情が恐怖からのものか、愛からのものかを、
知ることができる。
こういうふうに見て行くと、僕たちの生活の殆どが、
愛よりも恐怖に支配されている、ということが分かる。
僕たちは恐怖を払拭し、なるべく平安でいるために、
結婚したり、働いたり、病院へ行ったり、貯金したり、
と、様々な防衛手段を講じているわけだが、
問題は、どんな措置を取っても、次から次へと、
新バージョンンの恐怖の火種が噴出する点にある。
もう、これぞまさしく、ホラー映画そのものである。
なので、恐怖か、愛か、という点から言えば、
少しでも何かを恐れている時点で、自分は100%、
ホラー映画の中(恐怖の中)にいると言っていい。
じゃあ、恐怖って何なんだろう、と考えたとき、以前、
コース兄弟の女性が話してくれた体験を思い出した。
ある集まりの中で、一人の人物(男性)が、
その場にいた幾人かの女性ひとりひとりに対し、
自分にとって、
最も嫌悪と恐怖を感じさせる言動を取りはじめ、
その順番がだんだん自分に近づいてくるにつれ、
恐怖と緊張で胸がバクバクと高鳴り、やがてついに、
その恐怖心がマックスに達したとき、なぜか、
スーッと気持ちが冷静になり、とても平安で、
愛に包まれているような感覚に反転したのだという。
そして、その瞬間から、恐怖は消失し、
何にも怖いものがなくなってしまったというのだ。
「恐怖ってさ、愛が裏返った別の形なんだと思う。」
と、そのとき彼女は言った。
こんなにも、人々が恐怖に惹きつけられるのは、
その裏側に隠れている愛に反応しているからだと…。
要は、恐怖も愛とおなじもので、僕たちは愛を、
恐怖という別の形に歪めて感じているに過ぎない。
神の愛を直接感じることは拒否するけど、
恐怖に一回ねじ曲げたカタチだったらオーケーよ、
というわけである。
でも、これって、なんとも、ゴーマンなやり方だ。
だから、今後、恐怖に直面するようなことがあったら、
これは、自分が神の愛を拒否した結果、それを心が、
別の形態として見ようとしている、ということを、
一旦ちゃんと認識してみることが大切となってくる。
その上で、起きていることを、ウソとして赦し、
恐怖を正常な愛の知覚に修正してください、
と聖霊兄貴に委ねるのだ。
明日から上海出張である。
去年夏に解雇になった中国人総経理の労働争議
が終結し、やっと社印が返却されることになった。
これで、残りの株を売却することができる。
こうして、去年の夏から始まった上海での赦しの旅も
ようやく終焉を迎えようとしている。
上海を思い切り楽しんで来ようと思っている。
↓上海すったもんだ劇場の過去記事はこちら↓
夢の行動 - 香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元