先週の土曜、久々に兄弟てっちゃんとスカイプした。
午後10時に始まり、終わったのが朝の6時だった。
オッサン二人、何をそんなに話すことがあるのだ、
と言われそうだが、
「もう、奥さんちょっと聞いてよ!」的な話から、
最近の気づきや政治ネタまで、一挙網羅され、
時間はあっという間に過ぎた。
てっちゃんとオールでスカイプなんて何年振りだろう。
彼は今年のゴールデンウィークを4連休にしたので、
この日はたまたま、普段より、元気と気力があった。
何しろ、兄弟てっちゃんが疲れていない日は、
一年に2日くらいしかないため、
この貴重な一日を逃してなるものか、
とばかり、大いに語り合った。
その中でも特に盛り上がったのが〝転生ネタ〟だ。
以前、人は今世で最も憎んでいるものに転生する、
と書いたが、もしそうなのであれば、
前世の自分が最も憎んでいた者が今の自分だ、
ということになる。
例えば、
支配的で威圧的な人間が大嫌いだったとする。
実際、そんな人から何かを言われたりすると、
怖くて、何も言い返せなくなってしまったり、
同時にとてつもない憎しみを抱いたりする。
もう、テレビで麻生大臣を見るだけでムカついてくる。
だが、前世では、
自分がその支配的で威圧的な人間として、
周囲の人に憎しみを抱かせていたわけである。
要するに、
自分の前世は麻生大臣だった、ということになる。
それをこのまま赦さず、今世を終えると、来世では、
また自分が傲慢で威圧的な人間を演じるハメになる。
このように、被害者と加害者を交互に繰り返してゆく。
なので、今、自分が憎しみを抱いている誰か、
「あの人、なんだかイヤ!」「厚かましいから嫌い。」
「あんな人、死ねばいいのに…。」
と言っているその相手こそが次の自分なのだ、
と自覚することはとても重要なことなのだ。
「いやいや、自分はあんな人間にはならないよ。」
と思ったって無駄である。
今世での〝わたし〟というキャラは、
今回限りの設定であり、表面的なものに過ぎない。
今世では、天使のように優しい人が、
来世では、連続殺人鬼であったりする。
要するに、その人がどういうキャラであるかは、
本質の自分とは何ら関係がないのだ。
ということは、今回限りの設定の自分を指して、
「こんなわたしが大嫌い。」
「あの人って、こうこうこういう所がだめだよね。」
「わたし、あの人だけは赦せない。なぜなら…。」
と言うのは全くナンセンスであり、無意味である。
だって、この性格は本質の自分とは無関係であり、
生まれ変わってしまえば、
全く違うキャラ、全く違う外見になるのだから。
なので、もう憎しみの連鎖はうんざりだ、と思ったら、
目の前の憎んでいる人を赦す以外、手はなくなる。
だって、これが〝次の自分〟なのだから…。
〝徳を積む〟という言葉がある。
この考えから行くと、真に徳を積むとは、
どれだけ相手を、
〝過去からの自分の分身〟と観て赦せるか、
ということなのだ。
以前、この話を会社の酒席でしたところ、
「じゃあ、大金持ちを憎めば、
次は大金持ちに生まれてこれるな。ハハハッ!」
と言われたことがあった。
だが、たとえ、
大金持ちに生まれてきたとしても、そのまた次は、
それと正反対の自分として生まれるのだから、
結局、同じである。
プラス、マイナス、プラス、マイナス、
陰、陽、陰、陽…、
このスパイラルから抜け出さない限り、
苦しみは終わらない。
要するに、今目の前にいるだーい嫌いな人を赦せば、
1円で松濤に家を買うくらいお得だ、という話である。
言い換えれば、
嫌いな人が現れたら、めっちゃラッキーかもしれない。
どんな納得の仕方であれ、赦せれば勝ちなのだ!