↑ 中国の大学院の卒業式
東京に帰任するまで、まだ間はあるが、
これから少しずつ荷物の整理をしていこうと、
古い洋服や不要な物を片づけはじめている。
電気製品は電圧が違うので持っていけないし、
昔、デザイナーにワクワクで(笑)造ってもらった
中国家具は、とても日本へは運送できないので、
売るなり、誰かに引き取ってもらうなりして、
何らかの処分をしてゆかねばならない。
かなり、個性豊かな家具なため、
引き取り手もないと思われるが、まあ、これも、
兄貴に委ねているので何とかなるであろう。
↑いつ、どこで撮ったのか、覚えていない写真
それでも、いろいろ部屋を整理していると、
自分でも忘れていた意外な〝過去〟に遭遇する。
過去を象徴するものとしては、例えば、
古いアルバムや日記帳、雑誌などが挙げられるが、
パソコンやスマホで画像や文書を管理する今では、
自分にとって嫌な過去やどうでもいい過去は、
適当に修正したり削除したりできる。
それが紙媒体だと、紙の変色具合や、汚れの中に、
その時代の匂いが、リアルに生々しく残っている。
中でも、書斎の本棚に、中島梓氏著の『小説道場』
を発見した時、不思議な感慨がこみ上げてきた。
この本は僕が高校生の頃に出会い、
いわば、僕の小説のバイブルのようなもので、
句読点の打ち方から、物語のトーンの作り方、
どのようにしてキャラを立ててゆくかに至るまで、
小説のイロハを、全てこの『小説道場』で学んだ。
↑社会人1日目。辞令を受け取るボク。
バブル真っただ中の当時、5、6社内定は当たり前、
1年目の冬のボーナスは120万円、という過去が、
この写真を見る、と同時に、
量子によって捏造される。
過去を象徴する何か(本や写真など)を見た瞬間、
その〝過去の遺留物〟にまつわる記憶や感情が、
〝確かに私にはこんな過去がありました〟と、
言わんばかりに脳裏に湧き上がってくる。
そのとき、あることに気づいた。
僕たちは、過去にこんな出来事が起こったから、
ここに、こんな写真が残っていると思っているが、
ひょっとして、その写真やモノを見た瞬間に、
それらに辻褄の合う過去が瞬時に合成され、
それが記憶とという形で立ち顕われるのではないか。
例えば、昔の歌手が、
テレビで当時の歌を歌っているのを見て、
ああ、あの時あんなことがあったな、と思い出したり、
また、古い写真に写っている誰かを見て、
その人との過去のストーリーを想起したりする。
写真、人、指輪、時計、本、手紙、何でもいいのだが、
それらは過去が存在したという〝証拠物〟ではなく、
過去を捏造するための〝トリガー〟となっている。
要するに、
過去の体験があるから、写真があるのではなく、
写真に沿って、体験したような過去が作られるのだ。
ひょっとしたら、次に同じ写真を見た時には、
その写真には、前回と全く違うものが写っていて、
過去もまったく違うものになっている可能性もある。
その証拠に、その物体が顕われるまでは、
当時のことを思い出しもしなければ、
そんな過去があったことすらも忘れている。
もしかすると、
過去って、今、この瞬間に造られているんじゃないか。
〝見る〟という行為によって量子に作用を及ぼし、
量子が脳裏に過去を〝でっち上げ〟るのだ。
見ることで過去が造られるのであれば、
過去がないということにも頷けるし、
過去も〝今に〟存在する、という考えも納得できるし、
〝引き寄せ〟も、別のパラレルに移行するというより、
ただ、記憶を変えているだけ、という言い方もできる。
そう思えば、
過去を思い返して後悔するのは無意味であり、
過去に罪悪感を抱くのもナンセンスだと言える。
過去は、自分の心の中の象徴に過ぎない。
いわば、夢と同じなのだ。
そして、無いものをあると思い込んで苦しむことを、
悪夢というのだろう。
また、逆説的に言えば、過去がないのなら、
過去の象徴物であるモノ(物質)も存在しない、
ということになる。
何が何だか、よく解らなくなってきた。
もう寝よう。おやすみなさい。