東京へ行って来た。今回もドーミーインに宿泊した。
ここは朝食が充実していて、露天風呂もある。
コーヒーは24時間飲み放題だし、夜には、
無料のラーメンまで出て、ビジネスホテルの中では、
最もコンテンツが充実しているホテルだと思う。
日曜に来て、火曜日の夕方に香港へ帰るという、
弾丸スケジュールだったが、とてもよい旅だった。
前回の記事で書いた通り、お給料も上がったし。(笑)
日曜の夜は、兄弟てっちゃんたちと新宿で会った。
いつものイタメシ屋で夕食をとり、
それから、終電の時間まで、大いに飲み、語った。
今回の語り合いのなかで気づいたのは、
赦しや、聖霊への繋がり方は、本人の性格や、
今世での設定によって異なる、ということである。
例えば、
僕の赦しは、外に顕わてくる人や事象を、
自分が外へ追いやった罪悪感として認識し、
聖霊へと明け渡してゆく。
てっちゃんの赦しは全く逆で、何かを体験した時に、
その罪悪感の投影を〝自分の内側〟に観て、
そこから直接聖霊に委ねてゆく。
外側に観た罪悪感を内側へと回収してゆくか、
内側に観た罪悪感をそのまま明け渡してゆくか、
一見、方向性は全く違うように見えても、
あると思っている罪悪感を取り消し、聖霊に繋がる、
という点においては、どちらも同じことをやっている。
僕は最初、その違いを考慮していなかったので、
彼の中から出てくる怒りを理解できずにいた。
僕の場合は、とにかく自分の運子ちゃんを、
外へ追いやってしまっているため、
罪悪感は全て他者の中に投影されてしまう。
怒りを僕自身の内側に観ることはあまりない。
だが、彼の場合は、自分の内側に投影するため、
ストレートに自己の罪悪感と向き合うこととなる。
外部投影型と内部自責型で言えば、
前者には、外部世界というワンクッションがあるが、
後者は、直接内側を観ることになるため、
赦せば赦すほど苦しくなってくるのだ。
ここをちゃんと理解していないと、
どっちがよくてどっちが悪い、という議論になったり、
互いを否定し合う結果となる。
これまで僕は、
〝外界に映る自分の心の中〟を赦せば赦すほど、
どんな人も優しく見え、社会権力的なものでさえ、
一種の〝愛〟のように知覚されてしまうので、
なんで彼がこんなにも様々なものに腹を立てるのか、
不思議に思っていたのだが、ここへ来て、彼はただ、
内側にある〝ひとつの怒り〟と対峙していただけだ、
ということに理解が及んだのだ。
それでも僕には僕の赦ししかできない。
なので、後半は、
彼の中から出てくる社会的怒りと対峙しながらも、
これは他者へと追いやった父に対する自分の怒りだ、
と認識し、聖霊の中へと返し続けていた。
そして、やはり、最後は感謝でフィニッシュ。
そう言えば、兄弟てっちゃん曰く、女性と男性では、
微妙に赦しの表現が違ってくるのだという。
例えば、
女性は〝受け入れる〟〝迎え入れる〟〝委ねる〟
といった、神から自分へ向かう表現が多いのに対し
男性は〝明け渡す〟〝神に向かう〟〝差し出す〟
と、自分から神へ向かう表現をすることが多い。
どちらも同じことを言っているのだが、
男と女で表現の〝スタンス〟が違うと聞いて、
なるほどな、と思った。
東京からの帰りの飛行機では、
悪天候のため、機内で一時間ほど待たされ、
離陸後も、普段なら4時間ほどの空路が、
強い偏西風の影響を受け、6時間近くかかって、
ようやく香港に到着した。
その間、ずっと聖霊の中に入って過ごしていた。
そう言えば、前から思っていたのだが、
高度の高い機上にいる時のほうが、
エゴ的な波動が薄くなるからか、地上にいるときより、
直感や聖霊のメッセージを受け取りやすく感じるのは
気のせいだろうか。
聖霊兄貴の中に、ぐぐっと入っていると、
どんなことも〝愛の視点〟で見るようになる。
僕の場合、24時間、こんな感じにはならないのだが、
最近ますます、こっちの方がリアルになりつつある。
近い将来、その感覚がくるっと反転したら、
どうなるのだろう。
本当に、本当に楽しみである。