↑免税店でバランタイン21年を買う。
日本の21年ものより全然安い。
東京出張を終え、香港へ戻る少し前あたりからか、
聖霊との、不思議な一体感が芽ばえはじめている。
なんていうか、これまで普通にやってきた、
聖霊に間違った知覚の修正を依頼する、とか、
聖霊に、幻想の罪悪感を認識して明け渡す、という、
距離を持った聖霊とのかかわり方ではなく、
最初から聖霊の中にすっぽり入り込み、
あとはもう、あなたの好きにしてください、と、
まるで、お母さんの子宮の中に返ったかのように、
ゆったり安らいでいる感覚…。
こうして、聖霊の中だけにとどまっていると、
何かを手放したり、明け渡したりするために、
個の自分ができる事など何もない、と気づかされる。
明け渡そう、手放そう、とする行為自体が、
バリバリ自分でやっているように思えてきて、
全然明け渡したことになってないじゃん、
というふうに知覚されてくるのだ。
これまで、ガンガン赦しを実践してきた身としては、
こういう感覚にはどうしても抵抗を覚えてしまう。
そんな自分とどう折り合いをつければいいのか、
わからずにいたとき、会社の昼休みにふと、
そういえば、乙女ののりちゃんって、
最近どうしてるんだろうという思いがよぎり、
早速、ようつべの動画を検索してみると、
パパ爺の本を朗読している動画があったので、
そのまま椅子を倒し、昼寝をしながら聞いてみた。
ほとんど夢うつつで聞いていたのだが、途中、
〝真の全托〟という言葉を耳にした瞬間、
ああああ、これかあああーっ、と、ようやく、
僕の感覚の正体が腑に落ちて解かった。
赦しや、明け渡しや、委ねることさえも、
〝自分〟ではできないと観念すること。
もう、何にもしがみつかず、コントロールもせず、
どんなテクニックも使うことなく、
どこまでもどこまでも、聖霊に全てを託し、
丸腰で手を離すこと。そうすることで、
真の明け渡しや赦しが自然に起こると…。
これでようやく、東京出張からずっと続いていた、
この奇妙な感覚の正体が〝全托〟という言葉と繋がり、
一層聖霊への〝全托感〟に拍車がかかった。
もう今後は、
ほんの少しの〝しがみつき〟も必要なく、
どんな些細な個の想いも放棄していい。
真の全托に身を委ねれば委ねるほど、
本当は自分がどういう存在だったかが明らかになる。
まあ、思い返せば、上記に記したようなことは、
すでに学んでいたし、理解してもいた。
ただ今回、頭ではない〝体験〟が必要だった。
ただひとつ〝全托〟について注意することがある。
聖霊に全托することによって、
自然に赦しが起こるのであれば、
日常レベルでの赦しの実践など、
必要ないのではないか、と言えば、そうではない。
これは、絶対絶対、そうではない。
まずは、赦しの実践ありき、である。
〝真の全托〟の状態は、理解してそうなったり、
知っているからできる、という類いのものではなく、
それが〝起きる〟まではそうならない。
それが自然に〝起きる〟には、
明け渡しや赦しの実践を〝頑張る〟段階というのが、
不可欠となってくる。
内なる罪悪感や怒りが癒されていないのに、
即行、全托だけで行こう、としても無理なのだ。
できない自分を責め、苦しくなるのがオチだ。
なぜなら、
頭でわかっただけで聖霊に真の全托ができていたら、
もう今頃、全員が故郷へ帰還しているはずだからだ。
特に、
自分が自分に〝有る〟と信じ込ませている罪悪感を、
決して甘く見るべきではない。
また、別の見方をすれば、
赦しを〝頑張っていた〟と思っているそのことさえも、
聖霊によって導かれている、とも言える。
要するに、これまでだって、僕達は、自分では何一つ
成し得ては来なかったのだ。
だから、安心して頑張ればいい。
今日からまたまた端午の節句で三連休、
聖霊の中にお籠もりしている僕である。