↑ 毎日この〝緑の回廊〟を通って出勤する。
香港にだって、自然はあるのだ!
今日は土曜日。終日、篠つく雨である。
こんな日は家でお籠りに限る、と、ミルクティを淹れ、
雨の音を聞きながら、書斎で書き物をして過ごした。
夕方、出前のピザでも取るかあ、と思いながら、
ボーっとしていた時、空間に粒子が飛び始め、
ああ、またこれかよ、と、その様子を眺めていると、
空間がどんどん遠のいてゆくような感覚に襲われた。
それはちょうど、目の前にA4サイズの紙をかざすと、
視界全体が紙一色に覆われてしまうが、その紙が、
目から離れてゆくにつれ、紙の面積は小さくなり、
代わりに紙に隠されていた周囲の風景が見えてくる、
という感覚に似ている。
装着しているVRゴーグルが緩み、その隙間から、
天国の光が漏れてくる。
やがて、現実のスクリーンはどんどん小さくなり、
気が付くと、天国(ハート)に取り囲まれていた。
薄皮のベールどころか、目の上に、
吹けば飛ぶような、小さなガーゼが、ちょん、ちょん、
と載っていただけだったと気づく。
自分は常に天国にいながら、
ガーゼの上に映し出された点のような現実世界を、
必死に追い続け、拡大させて見ていたのだ。
そのとき、ふっと、ある疑問がよぎった。
「じゃあ、このことに気づいているのは誰?」
その瞬間、あらゆる理(ことわり)がびびびと入り、
ああ、自分なんていない、自分はいなかったんだあ、
という、説明しがたい理解が湧いてくるのを感じた。
そして、はっ、と我に返った時、
暗いリビングで一人たたずんでいた。
さっきのは一体なんだったんだろう、と思いながらも、
それからなんやかやして、夜、足の爪を切っていると、
あれ、これ、誰の足?→自分の足なのだろうか→
自分は誰の足の爪を切っているのだろう→
じゃあ、これを見ているのは誰?→えっ?えぇーっ!
と、そこまで思いが至った瞬間、
〝わたしは、もういません〟という、
爆発的な理解が起こった。
それは、
「私は無い。世界も無い。
ひとつの意識(神)だけが在った!」
という、実にシンプルな理解だった。
小さい頃、プリンを食べていて、
何でこれは〝プリン〟というのだろう、と思った。
プリンという言葉のどこにプリンがあるのだろう、と、
プ・リ・ン、プ・リ・ン、と言葉を分解するように
思考していると、名前を持つあらゆるモノが、
崩壊してゆくような感覚に襲われて怖くなり、
慌てて考えるのを中止したことがあるが、
なんか、そのときに通じるものがある。
↑二階建てバスで家路を急ぐ。
毎日、ちょっとした旅行気分を味わっている。
そうして夜中になり、
解放感と共にベッドで大の字になっていると、突然、
大きなエネルギーが、みぞおちの辺りから、
ギュルギュルと渦を巻いて上昇してゆくような、
まるで、電動ねじ回しでネジを抜かれているような、
不思議な上昇感に包まれた。
そして、あくる朝、
土砂降りの雨の音と共に目覚めた。
たとえ、個人の自分の身に何が起こったとしても、
誰かに怒りをぶつけられても、イライラしても、
やはり、自分はなく、故に、罪悪もない。
目の上に載ったガーゼの上で展開される映像より、
天国の方がリアルになりつつある。
そこにずっと〝わたし〟はいた。
これまでも、そして、これからも、永遠に…。
やっぱり、言葉では表現できない。
限界である。
それでも、もう、僕は、夢には戻れない。