お隣さんが内装工事を始め、壁や床を、
電気ドリルで打ち壊しだしたのだ。
ガガガガガーッ、と心臓を逆なでするような音に、
いてもたってもいられず、パソコンと奇跡講座を手に、
近くのパシフィックコーヒーに逃げ込んだ。
とびきり濃ゆいエスプレッソを飲みながら、
しばし、奇跡講座を読み耽る。
『気がかりや不安や心配がなく、いついかなるときも
凪のように穏やかでいるとはどのようなことかを、
学ぶためだけに時間はある。』
『今この瞬間を取り上げ、
それを存在する時間の全てだと考えなさい。』
(奇跡講座第15章『聖なる瞬間』より意訳抜粋)
いま、僕の中で〝聖なる神の子〟であることを、
全面的に受け入れる準備が着々と進んでいる。
それは、垣間見のような〝悟り〟ではなく、
現実の時間の中で行なわれている。
自分が完全であり、何も必要としていないことを、
受け入れる為に時間が使われている。
それから、最近、とみに感じるのが、
隠された心(自己概念A)の存在である。
おそらく、奇跡講座を実践されている方であれば、
この夢の世界から目醒めることを決めているか、
と訊かれれば、何の迷いもなくYESと答えるだろう。
にもかかわらず〝そうならない〟のはなぜなのか。
そこには、裏で作用している
〝隠された無意識の心〟の存在がある。
いくら、この星谷周作という表面の意識が、
自分は聖なる神の子で完璧な存在だと信じたとしても
罪なんかない、世界はない、と心底思ったとしても、
父が待つ故郷へ永遠に帰還する、と決めたとしても、
その裏にある〝隠された心〟は、
目醒めて父の下へ戻りたいとは微塵も思っていない。
感電した猫のように、幻想の罪悪感の中で怯えている。
↑ 加藤三代子氏のDVDより
だが、隠された心は他者の中に顕われている。
いくら、愛だ、赦しだ、神だけだ、と言ったって、
本当は自分がどんなものを隠蔽しているかは、
他者がどんな状態に見えているかで容易に解かる。
他者が全然目醒めていないように視えるなら、
それは〝裏の自分〟が目醒めたくないのである。
他者が腹立たしい存在に見えるなら、本当は、
〝隠された心〟が平安を望んでいないのである。
だから、他者を攻撃したい、他者にイラつく、
世界が腹立たしい、という気持ちに駆られるとき、
それを解放すること(赦すこと/聖霊に委ねること)で、
隠された心の中にあるものを解放することができる。
あとは聖霊が全てを取り消してくれる。
なので、自分が見ている現実世界は、
自分の隠された心の中そのものであり、
体験しているあらゆる事柄は、
自分の心の中を体験しているのだ。
要するに、隠したつもりでも、実際には、
ちっとも隠されてなどいなかったというわけである。
なので、見えている現実を使って赦してゆくことは、
隠された心が信じているものを取り消してゆく、
大変有効な手段だと言える。
そのために時間が使われるなら、
時間は天国へ帰還するための一番の味方となる。