今週は、水曜日に行って、金曜日に帰るという、
二泊三日の弾丸東京出張だった。
目的は、フィリピン工場の財務状況を、
譲渡先である会社の女性専務に報告すること。
僕はその女性専務とは初対面なのだが、
数字に細かい人だと聞いていたので、会う前から、
近頃の僕にしては珍しいなと思うくらい緊張していた。
うまく説明できなかったらどうしよう。
なにかツッコまれて答えられなかったらどうしよう。
オドオドしてしまったら相手にどう思われるだろうか。
その緊張の裏で走っている想いを観察しているうち、
この緊張は〝喪失〟に対する恐怖からきている、
ということに気づいた。
例えば、お金や仕事が無くなることへの恐怖、
恋人に捨てられることへの恐怖、
病気になるのではないかという恐怖、など、
これらはみな、失うことがベースになっている。
そして、それらをもっと突き詰めると、
肉体(自我)が失われることへの恐怖に直結する。
女性専務が数字に細かい人だから、
緊張しているのではない。
自我を失わない為に、恐怖で防衛しようとしている。
逆を返せば、防衛しているものを捨ててしまえば、
恐怖は消える、ということだ。
僕だって明日この仕事を辞める(失う)のであれば、
緊張などしないはずだ。
数年前、品川でデイヴィッドの講演会に参加した時、
「自分の財産やお金を全て手放した時、恐怖は消え、
本当の意味で、心が平安に満たされました。」
と、フランシスが語っていたのを思い出した。
当時、彼女は事業に成功し、二軒の家のほかに、
相当な財産を所有していたのだが、
真の心の平安と引き換えに、それらの財産を、
すべて手放してしまったのである。
半分だけ処分するとか、必要な分は残して、
ではない。「全て要らないっ!」である。
失うことが恐れること、なのであれば、いっそのこと、
失ってしまえば恐れはなくなる、という論理だ。
これほどまでに〝心の平安〟(神)だけを、
求められるなんて、本当にすごいと思う。
女性専務相手にチマチマやっている僕とはもう、
スケールも、覚悟も、まるっきり違う。
それでも、湧き上がる〝恐怖の想い〟を、
兄貴と共に観ながら、消えゆく姿として委ねていた。
「いや、待てよ。ここは夢の世界だったよな。
ならば、夢の中で一体何を失えるというのだろう。」
と、そのとき素朴な疑問が起きた。
たとえ何かを失ったように見えても、
それは幻想だし、真実ではない。
そのことを想い出した瞬間、
従来の〝愛〟の感覚が戻ってきた。
恐怖が愛に取ってかわられたのが分かった。
で、昨日、
コンババ部長と、前回出張で一緒だった顧問と共に、
その女性専務に会うため、水道橋まで行って来た。
女性専務は、ごくごく普通の優しい人だった。
『なごり雪』で有名な、歌手のイルカに似ている。
「いろいろご苦労様でした。これからもよろしく。」
と言って、労をねぎらわれた。
自分が赦したから、専務が変わったのではない。
緊張しなくなったから、それでよいのでもない。
もともとそんなものは無かったのだと理解すること、
それが、絶対的に大切である。
こうして、僕の東京出張は終わった。
暑い暑いと噂されていたほど、東京は暑くなかった。
夜なんて、むしろ涼しいくらいだ。
なあんだ。
ワイドショーが大げさに騒ぎすぎてただけなんだね。