という言葉は、今や、あまりにもステレオタイプで、
それ故に〝ああ、それ知ってる、知ってる〟と、
最も上滑りしやすい言葉となっているが、
実際、この言葉ほど天国への道標となる言葉はない、
と、理解が起きている今日この頃である。
なぜなら、一切を自分の中へと迎え入れることは、
神を迎え入れることと同じであるからだ。
神を迎え入れるには、ある種の覚悟を伴う。
それは、自分が築いてきたと思っている〝人生〟が、
一切合財消滅してもいい、という覚悟である。
だが、大抵の人は、
嫌いな人、借金、病気、お腹の脂肪、など、
自分にとって都合の悪いものは消えてほしいが、
子供、家、趣味、お金、友人、身体、恋人、など、
自分にとって大切なものが消えるのは困る、
と、腹の底では思っている。
まさに、これまでの僕もそうであった。
そういう意味で、僕達は、ちっとも、
あるがままを受け入れてなんかいなかったのだ。
それでも、ここへきてようやく、僕の中で、
見えているもの、聞こえてくるもの、
起こっている出来事、眼前に顕われくる人たち、
全てをただありのままに受け容れる覚悟が整った。
今になってみれば、この覚悟を持つためだけに、
時間が使われてきたのだ、と解かる。
なぜなら、見えている事象の全てを自分の背後へと
迎え入れれば、自然と統合が起こり、
ひとたび統合が起これば、
全ては〝ひとつ〟の中へと消えていってしまう。
それはまた、自己の消滅、世界の消滅を意味する。
なので、
見えているものを、あるがままに受け容れるとは、
自分が消えてもよい、という覚悟の上に
実行されなければならないのだ。
そういう意味で、
いよいよ、最終段階に突入した。
最終搭乗(Final Boarding)はすでに開始されている。
『何も知らない』
(作:星谷周作)
どうして車に轢かれた鳩を救えなかったのか
どうして大切な人は逝ってしまったのか
どうして家は浸水したのか
どうして物事は移ろうのか
どうしてトイレが水漏れしたのか
僕にはなにも分からない
それはそれは悲しいほどに何も知らない
どうして爪を噛むのか
どうしてヤモリが壁を這っているのか
どうしてあの人のことが好きなのか
どうして酒を飲むのか
どうして陽光が床に照りつけているのか
どうして人はやってきては去ってゆくのか
僕にはなにも分らない
それはそれは切ないほどに何も知らない。
何も知らないのに
何も知らないのに
どうして自分を恥じるのか
どうして自分を責めるのか
どうして知っているふりをして人を攻撃するのか
僕にはなにも分らない。
それはそれは気持ち悪いほどに何も知らない
もう無理だと両手をあげ
もうだめだとぎゅっと両目を閉じて
一切を受け入れる覚悟をきめたとき
幻の支配者は一瞬のうちに消え失せ
そこに真実の光が戻ってくる
それは決して失うことのない永遠の愛だ
そのとき初めて
僕は自分が本当は何者であったかを智り
一切を目撃することになるのだ