今回は成田の北ウィングからの出発だった。
北ウィングに来るのは何年ぶりだろう。
役所っぽい建物にはまだ昭和の匂いが残っている。
だが、着いてみると、
どの航空会社のカウンターも人でごった返していた。
現在、関空や千歳空港が災害で使用不能なため、
関空や千歳空港のフライトがキャンセルになったり、
成田発に変更になったりしたことから、利用客が、
一斉に成田に押し寄せてきたのが原因らしい。
見れば、どの航空会社の地上係員も、
てんやわんやな様子で対応にあたっている。
結局、僕も、チェックインに一時間くらいかかった。
そして、僕の場合、しょっちゅうなのだが、今回もまた、
他は全部満席なのに、僕の両隣だけ空席であった。
お蔭で隣の席に食事やワインのカップを置きながら、
パソコンを打ったり、奇跡講座を読んだりでき、
おまけに最前列の席だったため、ゆったり座れた。
ワインのお代わりを3杯もして、ある意味、
ビジネスクラスより快適な機内の旅であった。
そして土曜日は、一日書斎にこもって、
ハレ師匠の神戸リトリの映像を見て過ごした。
ここのところ、ハートがすごく上がってきていたので、
もう一度ハートについて復習しておこうと思ったのだ。
7時間にも及ぶ映像を飛ばし飛ばし見た。
結果、認識できたことは、
ハート(真の自己)と、肉体の自己との間には、
まったく、一切、なんの関係もない、ということである。
今の僕たちは肉体の自己しか知覚できていないので
どうしても、肉体の自己をハートで満たそう、とか、
肉体の自己をハート(神)に近づけよう、とか、
肉体の自己でハート(悦)を感じよう、としてしまう。
そして、それがうまくいかないと、
自分はまだまだだ、と思ってみたり、
自分には何が足りないのか、と、
いろいろなマスターの情報を集めようとする。
ちがうのだ。
真の自己と肉体の自己はまったくの別物である。
だから、たとえ、どんなとりとめのない雑念の流れに
取り込まれたとしても、或いは、現れては消えてゆく
無意味な過去の記憶で無意識状態になったとしても、
そんなものは、真の自己とは全く関係がないのだから
ウツボカズラ大放出で、放っておけばよいのである。
そうして、神の子の自分に一点集中してゆく。
僕の場合は、みぞおちの奥のもう一つ奥に、
聖なる領域があり、そこにフォーカスする感じ。
別の言い方をすれば、
人の悪口を言ってしまった、兄弟を傷つけてしまった、
不当な扱いを受けていると強烈主張してしまった、
めちゃめちゃ腹が立って八つ当たりをしてしまった、
などといった自分にすら関わらないことが、
究極的な〝自分では何もしない〟〝任せる〟
ことに通じると言える。
要するに、
こんなことをしたから、ハートから遠ざかってしまった、
あんなことを言ったから、私は神から離れている、
ではないのだ。
そんなことは、どうせただの記憶に変わるのだから、
ただ消えてゆく姿として、流れてゆくだけである。
↑ ハレ師匠の講義の要点を書き写したメモ
多分、大和田菜穂さんやフランシスなんかも、
普段はイラつくこともあれば慌てることもあり、
物を買っておつりが少なければ、違いますよ、
と店員さんに指摘するような、普通の人である筈だ。
ただ、
彼女たちの中に肉体の自己は無くなっているので、
肉体が何をしようと、そこに罪悪を見ないだけである。
そういう意味では、罪悪感を否定するより、
自分の中の聖性をより拡大させてゆく方が
よりしっくりくる時代になってきたのかもしれない。