数日前、また〝あれ〟がやってきた。
夜、寝る段になって、部屋の灯りを消そうと、
電気スタンドのスイッチに触れた瞬間、
ババババーッ!と、電流が走るように、
〝全体が完璧にやっている〟ということが見えた。
電気スタンドのスイッチを押したあと、
ランプに明かりが灯るまでの間には、
スイッチがあり、電線があり、コンセントがあり、
壁があり、配電盤があり、送電線があり、
発電所があり、ボイラーがあり、タービンがあり、
石油があり、石油輸送船があり、石油精製所があり、
また、このLED電球ができるまでの過程があり、
とまあ、全ての繋がりが一体となって、
完璧に動いている様がドッバーンッと見え、
やがて、その一体の完璧さが、
周囲にある衣服や、家具や、植物や、空気、
人と人との関係性、果ては、宇宙にまで波及し、
最後は完璧な一体性の中で動いている様子が、
同時多発的にありありと見え、やがて、個の自分も、
その一体性の中に完全に溶け込んでしまっていた。
「ああ、もうここはそのままで完璧だったんだ。
自分だけに起きている事柄の断片だけを見て、
これは問題だと捉えていた事柄も、
完璧な全体性の一部であり、全体としては完璧だ。
だから、自分でコントロールする必要もなかった。」
スイッチを押さえたまま、どれくらい経っただろうか、
気が付けば、床の上にへたり込んでいた。
これから自分の生活や仕事はどうなるのか、とか、
あの時こうやっていればもっと違っていたのに、とか、
災難を避けるために今自分は何をするべきか、など、
そういう〝ふっ〟と湧いてくる想いも、
全ては完璧な一体性の中で起きている。
だから、心配しようとしまいと、後悔しようとしまいと、
対策しようとしまいと、悲惨な目に会おうと会うまいと、
起きることは起きるし、起きないことは起きない。
なんであのとき、ああしなかったのだろう、と、
後悔したって無意味だ。
その時に、その想いが起こらなかっただけのことだ。
そのまま、一体性の中へ委ねてゆけば、
どんな思いも、どんな事象も、やがては消えてゆく。
なぜなら、この完璧な一体性を動かしている主体は、
夢の世界の中では、どこにも存在しないのだから…。
↑台風通過前の成田。国内線がごった返している。
眠れる一なる神の子が見ている夢は、
神が反映されているため、ある意味、完璧である。
それを〝ふっ〟の想いだけでできた自分(笑)が、
どうにかしようと神に挑んでも、ただ徒労でしかない。
言葉では言い尽くせないのだが、それら一連の事が
電気スイッチに触れた瞬間、一気に観えた。
ただそれは、個の自分が観ていたのではないと思う。
眠れるひとつの神の子として観ていた。
夢の世界に赦す対象などいなかった、ということが、
心底解かってしまった今、僕ができる唯一のことは、
夢を見ている(この世界を夢見ている)一なる神の子
を赦し、癒そうと、聖霊を通して意志する事だけだ。
〝わたし〟がそれを準備する必要もない。
〝わたし〟が何かを付け加える必要もない。
もう、安心して意志していればいい。
というわけで、今、甲府にいる。
新会社が発足したため、その設立式典に参加した。
何十年かぶりで、社長から直々に辞令を受け取った。
甲府本社の人たちもみんな優しいし、
台風一過の晴天のもと、とてもうれしいひと時だった。
そのあと、大阪にある得意先の会議に参加するため、
大阪の実家に帰る。新幹線、動いてるかな?