↑ 工場の窓から見えるこの風景が大好き!
肉体を信じてしまったことが全ての間違いの基だった、
また、全ての問題は肉体を信奉している心にあった、
という爆発的理解が、今、僕の内部で起きている。
この世界を認識できているのも、
罪悪の魅力に惹きつけられているのも、
別の肉体についてあれこれ解釈し、攻撃できるのも、
楽しさや、快適さや、この世界の幸せを追及できるのも、
逆に、罪悪感や、緊張や、恐怖を感じていられるのも、
全ては、ここに肉体があり、私とあなたは肉体である、
という確固たる〝個〟への信念に基づいている。
肉体は幻想だ、と頭では理解していても、やっぱり、
お金が無くなれば、肉体は存亡の危機に怯えるし、
次々と物品を購入して、肉体を快適に保とうとし、
住む場所や、仕事や、パートナーを探したりして、
とりあえず、肉体の安全を確保しようとする。
しかし、肉体に力はないのに、僕達は肉体を、
自我の牢獄にしてしまっている。
その根底にあるのは、やはり、
犠牲と分離への信念そのものだった。
この幻想の肉体ゲームは、
誰かが犠牲となることで、誰かが平安を得る。
また、自分が犠牲となることで、誰かが幸せを得る。
だから、世界を認識しない、というのは、
肉体を認識しない、ということと同義語であり、
自分や兄弟を、肉体から解放する、ということは、
神の子を牢獄から解き放ち、
兄弟と真の親交をもつことと同じ意味を持つ。
↑ 中国の豪華客船。まるで移動マンション。
以前、目の前にいる兄弟たちが、どこか魂を持たない、
奇妙な生物のように見えていた時期があるが、
それもいま思えば、兄弟は肉体の中には存在しない、
ということを体感し始めていた瞬間だったのだろう。
↑ この日のスービックリゾートの気温は25度。
空気は乾燥していて、爽やかな風が吹いている。
肉体から兄弟を解放するには、
とにもかくにも内側に向かうことである。
距離もなく、すでにここにある真の自己を見つけ、
そこに留まるということである。
その場所から、肉体ははなから存在せず、
故に罪も、分離もなかった、という理解を、
内側を通して兄弟に差し出してゆく。
そうすることで、自分も牢獄から解放されるのだ。
また、肉体(自我)の囁きに耳を傾けないことだ。
「あの人があんなことを言ってるよ、さあ言い返すんだ。」
「これを放っておいたら、大変な事になってしまうよ。」
「あれを手に入れたら、君はもっとハッピーになれるよ。」
「あそこに行けば真実に出会えるよ。」というふうに、
肉体(自我)は、常に何かを〝する〟ことを強制する。
なので、自分は何もする必要が無いと思い出すことは、
肉体を信じない上で、非常に大切である。
ただ、ここで誤解を避けるために言うならば、
何もしないとは、食うな、飲むな、したいことをするな、
ということではない。
自我の囁き通りに対処をするな、ということである。
そうやって、肉体が解体されてゆくにつれ、
静寂の意識(決断の主体)への移行が起こる。
そこから、歪められていない純粋なハートを受け容れる。
というわけで、今後しばらくは、
兄弟を肉体から解放する時期を過ごすことになるだろう。
もう、怖いくらいにに数日単位で見え方が変わってゆく。
大気圏を抜けるまでは、ちょっと根性が必要だが、
そこを抜けた後は、自動的に必要な事が次とやってくる。
あとは、それに〝イエス〟と言って従うことだけである。
↑ あまりに快適なフィリピンの昼下がり、
ひとり、近くの公園を散策する。
というわけで、いま、毎度おなじみフィリピンにいる。
いま、フィリピンは乾季の真っ最中で、
爽やかな風が吹き、とても過ごしやすい。
夜も、エアコンを止めて寝ている。
そして、今回は、
フィリピン兄弟たちの助けを借りながら、
僕達は肉体ではない、というレッスンをこなしている。
飛行機の中でもほとんど瞑想状態。(別名爆睡ともいう)
まあこんな感じで、現役を引退するにあたって、
最期のご奉公をしている僕である。