今週は清明節の祝日と重なり、香港は三連休である。
せっかく初日の夜は夜更かしをしようと思っていたら、
早々に睡魔に襲われ、あくる日は昼近くまで寝ていた。
その間、色んな夢を見た。なかなかリアルな夢もあった。
が、どんな夢だったか、朝起きて、
シャワーを浴びる時まではおぼろげに覚えていたが、
今はもう全く思い出せない。
たぶん、僕たちが見ているこの幻想世界の夢も、
目醒めてみれば、こんな感じで忘れ去られるのだろう。
夢と言えば、毎日の生活の中で立ち顕われる映像を、
瞬間瞬間、ああ、これは夢で本当ではないんだ、と、
見えている場面のひとつひとつを、じみじみ凝視して、
赦していくことが、今の僕の実践となっている。
どういうことかというと、
本当にこれは、寝ている時に見る夢と同じ幻影で、
ただの映像に過ぎないんだ、と実感できてくると、
見えている景色が、本当の自分とは解離した、
静かで自分には何の影響も及ぼさない、故に、
自分は何の反応も必要としないもの、として見え始める。
そんな状態が続くうち、
じゃあ一体誰がこの夢を見ているのか、と思い始め、
次に、この肉体の自分も夢の一部だったと分かり、
最終的には、じゃあどうしてこんな夢を見ているのか、
という所までたどり着く。
そのとき、決断の主体にいる自分を発見する。
ただし、誤解を避けるために言っておくならば、
「ああ、これも、あれも、全部幻想で夢なんだぁー。」
と、お花畑状態になるわけではない。
ていうか、なろうと思ってもなれないから、安心していい。
なぜなら、そこに留まろうとすると、必ずその反動として、
何だか居心地の悪いような、恐ろしいような、
そこから引きずり降ろそうと全力で襲いかかってくる
目に見えない力が、自動的に発生してくるからだ。
そして、その力動は、自分があの位置へ戻らない為に、
自分で自分に仕掛けた枷(かせ)だったことを思い出し、
聖霊と共に見つめながら、幻想の枷を赦してゆく。
とまあ、
文章にすれば何だかややこしいのだが、要するに、
〝赦しは夢に対しては何もしない〟ということである。
本当に起こっていない事に反応する必要はないのだ。
しかし、実践の過程で、
それでも夢を真に受けて反応してしまうとき、
夢だと思い出してその枷を赦してゆく。
夢を見ている主体が、何を選んでいるかを目撃した時、
夢の一部である〝わたし〟もそこへ戻ってゆくのだろう。
とまあ、そんなわけで、夢の中の僕は、この連休を、
のんべんだらりと、くちゃ寝くちゃ寝で過ごしている。