この連休は、中日(なかび)にジムへ行ったくらいで、
お酒も飲まず、ほぼ、家の書斎に籠って書き物をしたり、
奇跡講座のテキストを読んで過ごした。
最近、お酒を飲んでも、あまり美味いと感じられないので
自然と飲まなくなってきている。
〝自分は今夢を見ていて、その内容は真実ではない〟
という事実を、あらゆる夢の場面に適応することで、
実存しないものを実存しないものとして赦す、
という毎日である。
そして、この幻影の原因は心のなかにあり、
夢を見る者でいるという選択をしたのは私で、
この夢の出来事は、私に対してなされているのではなく、
私自身がこれをしている、と〝心〟が認めることで、
夢からの解放が起こる。
この〝心〟が認める、というところがミソで、それには、
肉体の自分が頭で理解しているだけではなく、
実際の夢の場面で、夢を夢として扱うことが、
絶対的に大切になってくる。
それが夢で、ウソで、でっち上げなのであれば、
100%そのように相(あい)対することが必要となる。
それが夢の出来事に反応しない、ということであり、
わ・た・し・が投影した夢のフィルムを恐れない、
ということである。
そうやって、仕事、子育て、恋愛、家族、人間関係、など、
でっち上げ劇場を実際の夢の場面に当てはめて行くと、
次第に〝死の夢〟から〝癒しの夢〟へシフトが始まる。
やはり、僕たちはまだ肉体を持って夢の中にいるので、
先ずは、夢が癒されなければならない。
とは言っても、その人の段階段階によって、
赦しのプロセスというか、赦し方は微妙に変化してゆく。
僕だって、5年前は、出てくる罪悪感を、
聖霊に大放出するだけでもう、いっぱいいっぱいだった。
というふうに書けばカッコいいのだが、実際には、
仕事でちょちょ舞ていたり、
報告書の期日が迫っていたりすると、
自分が今夢を見ていることを自覚しつつも、
〝没入〟が止まらなかったりする。
まあ、僕もまだまだ、夢の途中、なのである。
上記の記事を書いていた頃は、まだ、
夢を見ている自分にただ委ねているだけだった。
しかし、今は、夢のひとつひとつを直視しながら、
それを赦して行っている。
夢の消滅が始まったのだな、と実感している。
というわけで、いま、東京に来ている。
今日、火曜日に東京に来て、金曜日に香港へ戻る。
で、JR有楽町駅から日比谷線に乗り換えようと、
「日比谷線の有楽町駅に行きたいんですけど…。」
と、EXILEみたいなお兄さんに訊いたら、
そんな駅はない、と言われた。
どこへ行きたいんだと聞き返されたので八丁堀です、
と答えると、銀座まで歩け、と道順を教えてくれた。
街には、初々しいスーツ姿の社会人一年生たちが、
ちょっと見頃の過ぎた桜の木の下を闊歩している。
ああ、夢でもいいから、あのころに戻りたーい、
と思いつつ、必死のパッチで銀座駅目指して歩く、
社会人、ン十年目のボクであった。
(↑ バリバリ夢の中やな!)