前回の記事で、
聖霊が本来の自分の姿だった、と思い出すために、
聖霊から学んでいると書いたが、それはもちろん、
心の内側へ入ることで学べる。
まだまだ完全ではないけれど、
最近、意識が心の方に向いている時間が長くなった。
仕事のメールに返信を書いている時でも、
同僚と来期の予算について打ち合わせている時でも、
今月の出張スケジュールを立てている時でも、
内側に留まりながら、普通に生活できるようになってきた。
別の言い方をすれば、内側で生活している、という感覚か。
外側と内側が反転しはじめると、
外側で起きているように見えていることが、
本当は内側だけで起きているように感覚化されてくる。
外側の世界が消滅したり、
世界が夢のように見えたりする、のではなく、
外側も、内側も、どちらも内側のように思えてくるのだ。
少し緊張しながら、会議で発表している時の心の中、
相手の一言で勝手な妄想劇場に走っている時の心の中
楽しかった時の事を思い出してニヤニヤしている心の中
夜、好きなことをしながらくつろいでいる時の心の中、
そうやって、心の中にふっと湧き出す想いを、
じっと直視しながら聖霊に差し出していると、だんだん、
心の中が聖霊みたいになってゆくのを感じる。
例えば、
満たされた愛の感覚や、何かをやり遂げた達成感などは
自分が望み選んだのだ、と容易に信じることができるが、
大切なものを失った時の喪失感や恐れに対しては、
自らそれを選択したのだ、とは思い難い。
それでも、内側を見つめ、
聖霊に差し出す実践を続けていると、
うれしい、幸せ、感動、平安、やすらか、といった感覚と、
悲しい、失望、ドキドキ、緊張、恐怖、という感覚は、
全く同じものだ、ということが腑に落ちて分かってくる。
それらは同じ所からくる同一のものなので、
どちらもひとつの心が選んだものだ、と納得できる。
こうなっている自分も、こうなれていない自分も、
全部、分離から来ていて、その分離は自分で選んだ、
というひとつの信念へと行きつく。
その心の内側で行なわれているここを、
聖霊兄貴と共に、じっと凝視してゆく。
そうやって、安らかさも、緊張感も、聖霊へと運ぶ。
なぜなら、それは同じものだから。
というわけで、代休が3日も溜まっていたので、
今日(金曜日)は休暇をいただくことにした。
来週月曜日も、お釈迦さんの誕生日で休みなので、
久々の4連休である。
香港はなぜか、イエスの誕生日も、ブッタの誕生日も、
祝日で休みとなる。
二人とも、生まれてくれて有難う!
今日はとりあえずジムで自主練をしたあと、
コーズウェイベイ(香港の渋谷)をぶらつくつもり。
なんせ、月末から、来月初頭にかけては、
日本の甲府→フィリピンのセブ→中国の杭州、と、
怒涛の海外出張が続くため、いま、十分休むのだ。