今日は土曜日。
家から一歩も出ず、リビングでウダウダと過ごしている。
裏の森ではアブラゼミが鳴き、黒アゲハが舞い始めた。
そう。今年も香港の暑い暑い夏がやってきたのだ。
そして、去年の今頃は何をしていたのかなあ、と、
一年前のブログを読み返してみると、
日大アメフト部悪質タックル問題について書いている。
こうして振り返れば、どんな出来事もただの記憶であり、
本当にそれを体験したのかどうかもあやふやである。
そういう意味で、僕たちは、ただ、
消えてゆく姿の中を生きているのかもしれない。
冷房をガンガンに効かせ、餃子の昼食を取った後、
コーヒーを飲みながら、フォーラムの復習をした。
1.所有するためには、全ての者に全てを与えなさい。
2.平安を持つためには、平安を学べるように、
平安を教えなさい。
3.神と神の国をまもるためだけに警戒していなさい。
これら聖霊のレッスンの意味することが、
ようやく腑に落ちて理解できてきた今日この頃である。
何のサポートも無いままに奇跡講座のこの部分を読むと
「全ての者に全てを与えるなんて不可能だよ。」
「平安を教えるとは先生みたいに講義をする事なのか。」
「神の国は僕たちが護らなければ破壊されてしまうの?」
となるのだが、ちゃんとした教師から学ぶと、
それは心の中で差を見ない状態を意味しており、
教えるとは、ただ平安を差出している状態であり、
心の中の平安の部分を護るために警戒するのだ、
という意味がキチンと理解できてくる。
そして何より、
このレッスンを理解する鍵となるのが〝神の平安〟だ。
どんな時でも、どんな人に対しても、
先に平安を与えることで、神の平安を受け取ることができ
平安を受け取る際に出てくる罪悪感に気づき、
見つめることで警戒する。
もう少し分かり易く言うと、どんな状況に於いても、
自分が平安で在ることを示すことによって、
平安を与え、平安を受け取る。
その平安を聖霊から学ぶために、常に心の中へと戻る。
そして心の中を直視していることで、
自我の没入無意識状態に陥るのを警戒する。
それが〝教える〟ということの真の意味である。
別に、先生のように、何かを教えることではない。
そんなこんなで、蝉の鳴き声を聞きながら、
フォーラムの文章を読んでいるうち、
眠りに落ちてしまったボクである。