香港さんといっしょ! 奇跡講座(ACIM)と純粋非二元

欲望都市香港で奇跡講座を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

消えてゆく姿

f:id:shusaku1:20190522233927j:plain

 

今日は土曜日。

 

家から一歩も出ず、リビングでウダウダと過ごしている。

 

裏の森ではアブラゼミが鳴き、黒アゲハが舞い始めた。

 

そう。今年も香港の暑い暑い夏がやってきたのだ。

 

 

そして、去年の今頃は何をしていたのかなあ、と、

 

一年前のブログを読み返してみると、

 

日大アメフト部悪質タックル問題について書いている。

 

こうして振り返れば、どんな出来事もただの記憶であり、

 

本当にそれを体験したのかどうかもあやふやである。

 

そういう意味で、僕たちは、ただ、

 

消えてゆく姿の中を生きているのかもしれない。

 

f:id:shusaku1:20190522233921j:plain

 

冷房をガンガンに効かせ、餃子の昼食を取った後、

 

コーヒーを飲みながら、フォーラムの復習をした。

 

 

1.所有するためには、全ての者に全てを与えなさい。

 

2.平安を持つためには、平安を学べるように、

 

  平安を教えなさい。

 

3.神と神の国をまもるためだけに警戒していなさい。

 

 

これら聖霊のレッスンの意味することが、

 

ようやく腑に落ちて理解できてきた今日この頃である。

 

 

何のサポートも無いままに奇跡講座のこの部分を読むと

 

「全ての者に全てを与えるなんて不可能だよ。」

 

「平安を教えるとは先生みたいに講義をする事なのか。」

 

「神の国は僕たちが護らなければ破壊されてしまうの?」

 

となるのだが、ちゃんとした教師から学ぶと、

 

それは心の中で差を見ない状態を意味しており、

 

教えるとは、ただ平安を差出している状態であり、

 

心の中の平安の部分を護るために警戒するのだ、

 

という意味がキチンと理解できてくる。

 

そして何より、

 

このレッスンを理解する鍵となるのが〝神の平安〟だ。

 

 

どんな時でも、どんな人に対しても、

 

先に平安を与えることで、神の平安を受け取ることができ

                               

平安を受け取る際に出てくる罪悪感に気づき、

 

見つめることで警戒する。

 

 

もう少し分かり易く言うと、どんな状況に於いても、

 

自分が平安で在ることを示すことによって、

 

平安を与え、平安を受け取る。

 

その平安を聖霊から学ぶために、常に心の中へと戻る。

 

そして心の中を直視していることで、

 

自我の没入無意識状態に陥るのを警戒する。

 

それが〝教える〟ということの真の意味である。

 

別に、先生のように、何かを教えることではない。

 

 

そんなこんなで、蝉の鳴き声を聞きながら、

 

フォーラムの文章を読んでいるうち、

 

眠りに落ちてしまったボクである。