香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

それは〝神〟だ!

f:id:shusaku1:20190708003734j:plain

 

住んでいるアパートの裏が市場になっていて、

 

果物、野菜、肉、魚はもちろん、花や点心を売る店が、

 

ぎっしりと軒を連ね、夜遅くまで賑わっている。

 

それで僕も最近、仕事帰りに、

 

果物なんかを買って帰ったりするようになった。

 

スーパーではなく、果物屋で売られている果物は、

 

橙色の電燈に照らされ、とてもみずみずしく見える。

 

今日は黄桃が出ていたので、ひと盛り買ってみた。

 

桃はかなり熟していて、家の流しで洗っていると、

 

桃特有の甘い香りが部屋中に拡がった。

 

夜、指で桃の皮を剥き、柔らかい塊にかぶりつく。

 

柔らかい果肉の感触と、桃の味が口の中で混ざり合い、

 

何とも言えない至福感に満たされた。

 

f:id:shusaku1:20190720003952j:plain

 

と、この、桃を食べた時の形容しがたい感覚を、

 

頑張って言葉で表現してみたが、もちろん、この体験を、

 

他の誰かと100%正確に共有するのは不可能である。

 

なぜなら、

 

他者には〝桃を食べた〟という体験がないからだ。

 

 

桃を食べた時に感じる、

 

理解はしているけれど、言葉で説明できない体感、

 

または、桃を食べたという体験の裏に流れている、

 

気づいてはいるけれど、自覚はしていない歓び、

 

それが、ハートである。

 

 

そして、この底辺に流れるハートの感覚を〝神〟だ、

 

と認識するのが怖いが故に、この桃、美味しいね、とか、

 

あの人は自分にとってかけがえのない人だ、とか、

 

安室奈美恵の歌にいつも励まされている、というように、

 

〝無数の解釈〟に置き換えることで、心おきなく、

 

神を感じていられるのである。

 

f:id:shusaku1:20190708003729j:plain

 

桃を味わった瞬間、自分は神に気づいている。

 

この説明しがたい歓びを、

 

本当は〝神の想い〟だったと認識している。

 

 

「ああ、なんちゃらハルシが言ってたハチミツのあれね。」

 

とか、

 

「解釈を止め、判断を止め、あるがままに感じる。」

 

とか、

 

「夢を越えた位置から幻想を見れば、解釈は無意味だ。」

 

といった、そういうものではない。

 

自分は桃を食べたからこれを味わっているのだ、

 

という解釈を取り下げ、ただ静かに黙って、

 

ひとつひとつの日常の体験の裏に流れている

 

神の想い(ハート)に気づいてゆく。

 

感じようとするのではなく、

 

たどり着こうとするのでもなく、

 

ただ、待って、気づく。

 

f:id:shusaku1:20190708003744j:plain

 

以前は、

 

解釈や判断をせずに仕事をするなんて絶対に無理だ、

 

と思っていたが、解釈を取り下げるとは、

 

単に〝無〟の状態をキープすることではなく、

 

その先にある、神の歓びの想念にまで入ってゆくことだ、

 

と理解して以降、たとえ仕事中でも、解釈に気づき、

 

それを取り下げることができるようになった。

 

だって、何をしていようと、どんなに苦しんでいようと、

 

僕たちは、神の想念しか感じていないのだから…。

 

なんのことはない。

 

僕たちは、24時間天国のハートを感じていて、

 

父はいつも僕とともに在ったのだ。

 

 

今日食べた一個の桃を通して父を体験する。

 

それが、大好きな歌手の歌であれ、

 

誰かから受けたちょっとした親切であれ、また逆に、

 

自分を悩ませるあの大嫌いな人の言動であれ、

 

その裏には、神の想いが走っている。

 

そこへとたどり着くのが、今の僕の赦しとなっている。