住んでいるアパートの裏が市場になっていて、
果物、野菜、肉、魚はもちろん、花や点心を売る店が、
ぎっしりと軒を連ね、夜遅くまで賑わっている。
それで僕も最近、仕事帰りに、
果物なんかを買って帰ったりするようになった。
スーパーではなく、果物屋で売られている果物は、
橙色の電燈に照らされ、とてもみずみずしく見える。
今日は黄桃が出ていたので、ひと盛り買ってみた。
桃はかなり熟していて、家の流しで洗っていると、
桃特有の甘い香りが部屋中に拡がった。
夜、指で桃の皮を剥き、柔らかい塊にかぶりつく。
柔らかい果肉の感触と、桃の味が口の中で混ざり合い、
何とも言えない至福感に満たされた。
と、この、桃を食べた時の形容しがたい感覚を、
頑張って言葉で表現してみたが、もちろん、この体験を、
他の誰かと100%正確に共有するのは不可能である。
なぜなら、
他者には〝桃を食べた〟という体験がないからだ。
桃を食べた時に感じる、
理解はしているけれど、言葉で説明できない体感、
または、桃を食べたという体験の裏に流れている、
気づいてはいるけれど、自覚はしていない歓び、
それが、ハートである。
そして、この底辺に流れるハートの感覚を〝神〟だ、
と認識するのが怖いが故に、この桃、美味しいね、とか、
あの人は自分にとってかけがえのない人だ、とか、
安室奈美恵の歌にいつも励まされている、というように、
〝無数の解釈〟に置き換えることで、心おきなく、
神を感じていられるのである。
桃を味わった瞬間、自分は神に気づいている。
この説明しがたい歓びを、
本当は〝神の想い〟だったと認識している。
「ああ、なんちゃらハルシが言ってたハチミツのあれね。」
とか、
「解釈を止め、判断を止め、あるがままに感じる。」
とか、
「夢を越えた位置から幻想を見れば、解釈は無意味だ。」
といった、そういうものではない。
自分は桃を食べたからこれを味わっているのだ、
という解釈を取り下げ、ただ静かに黙って、
ひとつひとつの日常の体験の裏に流れている
神の想い(ハート)に気づいてゆく。
感じようとするのではなく、
たどり着こうとするのでもなく、
ただ、待って、気づく。
以前は、
解釈や判断をせずに仕事をするなんて絶対に無理だ、
と思っていたが、解釈を取り下げるとは、
単に〝無〟の状態をキープすることではなく、
その先にある、神の歓びの想念にまで入ってゆくことだ、
と理解して以降、たとえ仕事中でも、解釈に気づき、
それを取り下げることができるようになった。
だって、何をしていようと、どんなに苦しんでいようと、
僕たちは、神の想念しか感じていないのだから…。
なんのことはない。
僕たちは、24時間天国のハートを感じていて、
父はいつも僕とともに在ったのだ。
今日食べた一個の桃を通して父を体験する。
それが、大好きな歌手の歌であれ、
誰かから受けたちょっとした親切であれ、また逆に、
自分を悩ませるあの大嫌いな人の言動であれ、
その裏には、神の想いが走っている。
そこへとたどり着くのが、今の僕の赦しとなっている。