大阪からさっき戻ってきた。
機内で一泊したので、2泊4日であった。
疲れてヘロヘロになるかな、と思っていたが、
そうでもなかった。
むしろ、ハートがざわつき、あまり眠れなかった。
今回の旅では、
〝自分も含めて神だった〟という大きな理解に至った。
正確に言えば、自分は神に創造された神の子であり、
故に、神と全く同じ考えを共有している、という意味で、
神そのものだった、という体験が起こったのだ。
神の心、とか、神の歓び、とか、神の想い、とかではなく、
〝神〟そのもので存在している。
ただ、誤解を避けるために述べるならば、それは、
自分が神になる、神に取って代わるという意味ではなく、
要するに、神以外のものなど、はなから無かった、
ということに気づいてしまったのだ。
見るモノすべてが神で、会う人全てが神なのなら、
自分も神そのものの存在のはずである。
そうなるともう、全てが同じなのだから、
一つ一つを神と観る必要がなく、全一で神となる。
神は、
全肯定、さらけ出して恥じない、ただ歓んで愛している。
歓びの中で愛を知り、相手が歓ぶから自分は嬉しい。
自分の存在もそれと全く同じ、まさに全身全霊である。
赦しを実践している僕たちコース兄弟は、
神を直視しない代わりに、日々、
あると思い込んでいる罪悪感を直視している。
しかし,
それは神を観ないための言い訳であり、
その言い訳自体が無かった、
と気づくために行なう〝直視〟であるべきだ。
そして、僕たちの〝全身〟が〝全霊〟であった、
と、心底解かったとき、
神の愛が、兄弟たちへ延長されてゆくのだ。
教える必要もなければ、言葉で語る必要もない。
ただ、そこで歓んでいるだけで、それは起こってゆく。
話は変わって、僕の会社は本社が東京なので、
当然、社員さんはみんな標準語で会話をする。
僕も、彼らと話す時は自然と標準語になる。
でも、今回、大阪にいる間、ずっと大阪弁で会話していて
とても自然体で、リラックスして自分を表現できた。
そうだ、これからは、いつでもどこでも大阪弁で行こう。
僕の大阪弁は、どちらかと言えば京都寄りのため、
「~してはりますねん。」とか「~してはんねやんかあ。」
といった、はんなり言葉が多い。
というわけで、今後は香港で、
〝はんなり〟と神を延長していきますどすえ。