⇑ 近所のおしゃれカフェで創作活動
家から歩いて30秒ですの。おーほほほっ!
(この解釈、どないかせい! from 兄貴)
連休三日目の土曜日は、お籠り三昧の一日だった。
といっても、ほとんど寝てた。
もう、誰に対しても神、何に対してもエクスタシー、
そして、自分の存在感さえもが神の存在感だった、と、
大好きが止まらない中で、これといってやることもない。
あ、そうそう、先日アップした〝法悦女子〟の記事
に出てきた法悦女子ご本人から、
「濡れ濡れ状態、なんて書いた後に私の写真を載せたら
読者の人全員が〝あ、この人は今、濡れ濡れなんや〟
て、絶対思うやんかあ。」
という感想を頂いたのだが、
はい、そうです、この人、24時間、濡れ濡れです。
神に凌駕されると、神の歓びで腰くだけになり、
ベッドから二日くらい起き上がれなくなるそうです。
同じく神に触れていても、
元来、瞬間湯沸かし器である男性の僕は、
そこまでのエクスタシーに達することなどなく、
「どや。羨ましいやろ!」と言わんばかりな彼女に、
「よし。体持ってる間に絶対濡れ濡れになってやる!」
と聖霊に誓うボクである。(⇚ちがーうっ!by 兄貴)
⇑ なんか、そう言われてみると濡れ濡れっぽい。
本人曰く,
「(後ろから、前から)の畑中葉子みたいやろ」
自分を愛するように相手を愛すること、と、
相手を愛するように自分を愛することは同じである。
そして、愛していたのが、
本当は、自分でもなければ他者でもなく〝神〟だった、
と気づいた時はじめて、
与えるものと受け取るものが同じとなる。
あの人が憎い、この人は苦手、なにより自分が大嫌い、
と言っているのは、神を大嫌い、と言っているのである。
なので、自分を愛することは他者を愛することとなり、
他者を愛することで、自分を愛していることになる。
どういうことかというと、
自分がハッピーであればあるほど、
自分がハッピーで歓んでいればいるほど、
相手がハッピーであり、愛を受け取っていることになる。
また、その逆もしかりである。
そういう意味で僕達は、ひとつの同じ神で繋がっている。
直接、ハート(神の想念)に触れてしまえば、
罪悪感や恐れを直視することに意味は無くなるのだが、
僕の実践の経験上、玉ねぎの皮むきの時期、すなわち、
自分が意識の奥で何を信じているかを直視する期間は、
ある程度必要だ、と感じている。
だって、最初のうちは、
自分を愛するように他者を愛する、と言ったって、
嫌いな人は嫌いだし、腹が立つものは腹が立つから…。
ただ、罪悪感を直視する時に忘れてはならないのは、
本当に直視するべきものは、罪悪感そのものではなく、
神の愛(ハートの想念)だ、ということである。
罪悪感や恐怖の裏に〝在る〟不変の神に気づくこと、
これが罪悪感を直視する真の目的である。
罪悪感の正体が何かを調べるてみると、結局、
僕たちと一緒に歓んでいる〝神〟だった、となる。
まあ、こんな感じで、神へ戻ってゆくプロセスを、
柔和なレッスンとして、楽しく終えて行けばいい。
第一、神に苦痛なんてあり得ないし、
苦痛を感じながら神へ戻ってゆくなんて絶対におかしい。
なので、苦痛から学んでいると思ったら、それは自我だ。
歓びの感覚 (神を理解している感覚=ハートの感覚)
こそが本当の自分であり、そして、自分も、神も、
歓びそのものであるが故に同じものである。
その理解そのものを生きるのだ。