香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神が溢れる

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⇑ 近所のおしゃれカフェで創作活動

   家から歩いて30秒ですの。おーほほほっ!

 (この解釈、どないかせい! from 兄貴)   

 

連休三日目の土曜日は、お籠り三昧の一日だった。

 

といっても、ほとんど寝てた。

 

もう、誰に対しても神、何に対してもエクスタシー、

 

そして、自分の存在感さえもが神の存在感だった、と、

 

大好きが止まらない中で、これといってやることもない。

 

 

あ、そうそう、先日アップした〝法悦女子〟の記事

 

出てきた法悦女子ご本人から、

 

 

「濡れ濡れ状態、なんて書いた後に私の写真を載せたら

 

    読者の人全員が〝あ、この人は今、濡れ濡れなんや〟

 

    て、絶対思うやんかあ。」

 

 

という感想を頂いたのだが、

 

はい、そうです、この人、24時間、濡れ濡れです。

 

神に凌駕されると、神の歓びで腰くだけになり、

 

ベッドから二日くらい起き上がれなくなるそうです。

 

同じく神に触れていても、

 

元来、瞬間湯沸かし器である男性の僕は、

 

そこまでのエクスタシーに達することなどなく、

 

「どや。羨ましいやろ!」と言わんばかりな彼女に、

 

「よし。体持ってる間に絶対濡れ濡れになってやる!」

 

と聖霊に誓うボクである。(⇚ちがーうっ!by 兄貴)

  

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⇑ なんか、そう言われてみると濡れ濡れっぽい。

    本人曰く,

     「(後ろから、前から)の畑中葉子みたいやろ」

  

 

自分を愛するように相手を愛すること、と、

 

相手を愛するように自分を愛することは同じである。

 

そして、愛していたのが、

 

本当は、自分でもなければ他者でもなく〝神〟だった、

 

と気づいた時はじめて、

 

与えるものと受け取るものが同じとなる。

 

 

あの人が憎い、この人は苦手、なにより自分が大嫌い、

 

と言っているのは、神を大嫌い、と言っているのである。

 

なので、自分を愛することは他者を愛することとなり、

 

他者を愛することで、自分を愛していることになる。

 

どういうことかというと、

 

自分がハッピーであればあるほど、

 

自分がハッピーで歓んでいればいるほど、

 

相手がハッピーであり、愛を受け取っていることになる。

 

また、その逆もしかりである。

 

そういう意味で僕達は、ひとつの同じ神で繋がっている。

 

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直接、ハート(神の想念)に触れてしまえば、

 

罪悪感や恐れを直視することに意味は無くなるのだが、

 

僕の実践の経験上、玉ねぎの皮むきの時期、すなわち、

 

自分が意識の奥で何を信じているかを直視する期間は、

 

ある程度必要だ、と感じている。

 

だって、最初のうちは、

 

自分を愛するように他者を愛する、と言ったって、

 

嫌いな人は嫌いだし、腹が立つものは腹が立つから…。

 


ただ、罪悪感を直視する時に忘れてはならないのは、

 

本当に直視するべきものは、罪悪感そのものではなく、

 

神の愛(ハートの想念)だ、ということである。

 

罪悪感や恐怖の裏に〝在る〟不変の神に気づくこと、

 

これが罪悪感を直視する真の目的である。

 

 

罪悪感の正体が何かを調べるてみると、結局、

 

僕たちと一緒に歓んでいる〝神〟だった、となる。

 

 

まあ、こんな感じで、神へ戻ってゆくプロセスを、

 

柔和なレッスンとして、楽しく終えて行けばいい。

 

第一、神に苦痛なんてあり得ないし、

 

苦痛を感じながら神へ戻ってゆくなんて絶対におかしい。

 

なので、苦痛から学んでいると思ったら、それは自我だ。

 

 

歓びの感覚 (神を理解している感覚=ハートの感覚)

 

こそが本当の自分であり、そして、自分も、神も、

 

歓びそのものであるが故に同じものである。

 

その理解そのものを生きるのだ。