そんなこんなで、もう、大好きが止まらない。
何から何まで、全身で両想いの感覚…。
文章だと本当にうまく表現できない。
どうしてこうなっちゃったのか、
読者の皆様を招集して、ワイングラス片手に、
滔々と5時間くらい語りたい気分である。
そこへ至るまでのあれこれを全部はしょって言うならば、
自分を自分だと感じている、その存在感は、
実は、神の存在感だった、という話である。
自分がここにいる感じとは、実は神がいる感じであり、
故に、わたしだと感じていたものは神の気配だった。
実際には神しか感じてこなかったのに、
そこへ〝わたし〟という解釈を被せることで、
神を神として感じなくてよいようにしてきた。
自分が存在していると思っていたのが神であるならば、
神と、神の子である自分は同一のものであり、
よって、神と自分の間に境界線などなく、
父が待つ故郷へ永遠に戻るもなにも、僕たちは、
一度も父から離れてなどいなかったのである。
神を自分だと思いたい、というたった一つの解釈によって
自分が見たいものだけを見る世界を作ってしまった。
神はずっと気づいてくれることを待っていた。
これが神の臨在の意味である。
神の歓びの〝感じ〟は決して言葉では表せないのだが、
神の声はいつだって 「愛してる!本当に大好き!」
ただそれだけだ。
なので、自分に向かって、心の底から大声で、
「愛してる!本当に大好き!」と言えることは、
神を受け容れていることになる。
⇑ 日曜の昼過ぎ、香港警察から、
「本日午後、ヴィクトリア公園周辺で大規模な、
デモが行われる模様。各メディアの最新情報に
留意してください」というSMSが入った。
日曜日、香港では170万人規模のデモが行われた。
その日の午後、セントラルでトレーナーと筋トレをして、
近くのPORKERというとんかつ屋さんで昼食を取った後、
僕の家があるコーズウェイベイまで地下鉄で戻ると、
地下通路がデモに参加する人たちでごった返していた。
後にも引けず、前へも進めず、進退極まるとはこの事で、
全くもって、一向に家へ辿り着けない。
やっとの思いで地上に出ると、大雨が降っていた。
結局、この日は、駅から1時間ほどかけて家に着いた。
⇑ 夜、家で葡萄をつまみながら白ワイン。
だが、デモ隊の人達に揉まれながら家へ着くまでの間、
僕は神の存在感そのものになっていた。
自分という存在自体が神だったことを思い出すたび、
形容しがたい悦びが溢れ出してくる。
まさに、神に囲まれているのだ、と思った。
デモをしている兄弟たちが神に見えるのではなく、
映像とは関係なしに、全一として神の中に溶けている。
なんていうか、起こってなかった、から、本当に無い、
に移行してしまっている。
〝無い〟が故に、赦すものも無かった。
現実が消えてゆく。