今日は、
日本から出張で来た顧問の方とディナーをした。
その顧問の宿泊先がチムサーチュイだったので、
以前から行きたいと思っていた、海港城にある、
PAPER MOONというイタメシ屋を予約した。
この店は、テラスから香港島の夜景が一望できる。
料理も美味いし、ブドウの搾りかすを発酵させて作る
グラッパという度数の強いワインも飲める。
ここ最近、香港らしい場所に行ってなかったので、
久々に、とてもよい時間を過ごすことができた。
また顧問もとてもよい方で、話も楽しかった。
というわけで、近頃〝夢の概念〟が定着しつつある。
この世界は夢で、起きていることは本当ではない、
という事実を、当然のこととして生きている。
美しい夜景を見ながら美味しいワインを飲んでいる時も、
家のソファに寝転び、ボーっとテレビを見ている時も、
また逆に、
月イチの部門長会議でびゅんびゅんしている時も、
ひとつの解釈からくる分離の夢を見ているんだ、
と自覚しながらも、そのスクリーンの裏から放射される、
神の理解=愛の想念=歓びの感覚、を感じている。
ここは幻想の世界で、自分が選んだ夢を見ているだけだ、
という真の自覚に至ると、
もっと冷めた感じになるのかな、と思っていたが、
意外にも逆で、以前にも増して歓びを感じる。
人として普通に持つ感情が無くなることもない。
台風の被災者の方の姿を見ると気の毒に思うし、
泥にまみれたリンゴを見ると、涙が出そうになる。
それでいて、ふっと湧き起こってくる自分の感情も含め、
これは寝ている時と同じ夢でウソなんだ、と知っている。
なんて言えばいいのか、
夢に反応している、夢の中の登場人物である自分を、
もうひとりの自分が夢の外から見ている、といった感じ。
⇑ 料理の締めはやっぱりグラッパ
ただ、夢の物語に対して、
批判したり、咎めたい気持ちが上がってきたときには、
即座に、見て、取り下げて、入れ替えて、赦す。
もう少し詳しく説明すると、
先ず、(あると思い込んでいる罪悪感を)見て、
次に、(分離したという間違った解釈を)取り下げて、
それから、(神は在るに)入れ替えて、
赦す。
やはり、赦しの最後は〝神は在る〟だ。
そこまで行くと、時間が消えるという体験が起こる。
ああ、ちょうど良い感じに酔っぱらっている。
もう書けない。
では、おやすみなさい。