香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

沈黙せよ!

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〝何が何でも裁かない〟〝裁くべき事など存在しない〟

 

をモットーに、今、この瞬間瞬間を生きているボクである。

 

 

業務メールをチェックしている時、同僚と喋っている時、

 

電車の中で考え事をしている時、街を歩いている時など

 

裁きを放棄することだけに集中しながら過ごしていると、

 

常に意識が自分の内面に向けられているせいか、

 

心が無意識状態にならずに済む。

 

 

どういうことかというと、

 

僕達は一日のほとんどを無意識レベルで過ごしている。

 

友人や家族との何気ない会話や、ちょっとしたしぐさ、

 

または、笑顔や、嫌悪感、といった感情表現に至るまで、

 

生活の多くの行動や思考を無意識的に行なっている。

 

 

そういう、隙あらば無意識にさまよい出ようとする心を、

 

〝絶対に裁かない〟〝裁かれる存在などいない〟と、

 

常に監視し、警戒することによって、結果、

 

無意識的行為が、意識的行為に変換されることになる。

 

 

いまこの瞬間に在る、という概念も多分、

 

いまこの瞬間を〝意識〟する訓練をすることで、

 

自我に警戒する、ということなのだろう。

 

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そうやって、裁きを取り下げて日々を送っていると、

 

やがて、裁くことがないのであれば、兄弟の中に、

 

差がなくても、なんら問題がないように思えてくる。

 

あの人と、この人が同じで何がいけないのか、

 

みたいな感覚になってくるのだ。

 

 

すると、今度は神の優しい平安が上がってくる。

 

 

ただ〝裁きを取り下げる〟を実践してみて分かったのは

 

普段の会話の中で、自分が言葉を発している時、

 

心は必ず無意識状態になっている、ということである。

 

皆さんもやっていただくと体感できると思うのだが、

 

裁く心を取り下げながら、相手の話を聞くことはできても、

 

心の中を直視しながら、ペラペラ喋るのは不可能だ。

 

要するに、自分が言葉を発しているとき、すなわち、

 

話している時は、赦しはできない、ということだ。

 

 

僕の場合、この実践を遂行するために、以前書いた、

 

声が高い、というコンプレックスを利用している。

 

会話する時〝意識的〟にわざと声を低くして話すことで、

 

自分が何をやっているかを自覚し、

 

無意識状態になるのを防ぐのだ。

 

声を低くして話す=裁く心を監視する=自我に警戒する

 

という図式である。

 

 

こうやって裁くのを止めると、本当に人生が変わる。

 

みんなが優しくなり、何気ない風景に神の愛を覚える。

 

 

会社にいて裁かない、って、これこそ奇跡だと思う。

 

なので、普通に会社で仕事をしているコース兄弟よ、

 

職場で神の平安を得ることは絶対に絶対に可能だ。