〝何が何でも裁かない〟〝裁くべき事など存在しない〟
をモットーに、今、この瞬間瞬間を生きているボクである。
業務メールをチェックしている時、同僚と喋っている時、
電車の中で考え事をしている時、街を歩いている時など
裁きを放棄することだけに集中しながら過ごしていると、
常に意識が自分の内面に向けられているせいか、
心が無意識状態にならずに済む。
どういうことかというと、
僕達は一日のほとんどを無意識レベルで過ごしている。
友人や家族との何気ない会話や、ちょっとしたしぐさ、
または、笑顔や、嫌悪感、といった感情表現に至るまで、
生活の多くの行動や思考を無意識的に行なっている。
そういう、隙あらば無意識にさまよい出ようとする心を、
〝絶対に裁かない〟〝裁かれる存在などいない〟と、
常に監視し、警戒することによって、結果、
無意識的行為が、意識的行為に変換されることになる。
いまこの瞬間に在る、という概念も多分、
いまこの瞬間を〝意識〟する訓練をすることで、
自我に警戒する、ということなのだろう。
そうやって、裁きを取り下げて日々を送っていると、
やがて、裁くことがないのであれば、兄弟の中に、
差がなくても、なんら問題がないように思えてくる。
あの人と、この人が同じで何がいけないのか、
みたいな感覚になってくるのだ。
すると、今度は神の優しい平安が上がってくる。
ただ〝裁きを取り下げる〟を実践してみて分かったのは
普段の会話の中で、自分が言葉を発している時、
心は必ず無意識状態になっている、ということである。
皆さんもやっていただくと体感できると思うのだが、
裁く心を取り下げながら、相手の話を聞くことはできても、
心の中を直視しながら、ペラペラ喋るのは不可能だ。
要するに、自分が言葉を発しているとき、すなわち、
話している時は、赦しはできない、ということだ。
僕の場合、この実践を遂行するために、以前書いた、
声が高い、というコンプレックスを利用している。
会話する時〝意識的〟にわざと声を低くして話すことで、
自分が何をやっているかを自覚し、
無意識状態になるのを防ぐのだ。
声を低くして話す=裁く心を監視する=自我に警戒する
という図式である。
こうやって裁くのを止めると、本当に人生が変わる。
みんなが優しくなり、何気ない風景に神の愛を覚える。
会社にいて裁かない、って、これこそ奇跡だと思う。
なので、普通に会社で仕事をしているコース兄弟よ、
職場で神の平安を得ることは絶対に絶対に可能だ。