⇑ セブパシのパイロットとCAさん
庶民的な感じが好き!
裁きたい心に警戒したり、相手を裁かずに見るには先ず
〝自分〟の聖性を、相手の中に見いだす必要がある。
日本語や中国語を喋る肉体としての相手ではなく、
その奥にある不変の〝愛(聖性)〟を観ること、また、
相手の中にある、永遠で、不動で、常在な愛の部分が、
実は、自分のものであったと認識すること、
そうやって、相手の中に愛(神)を見つけることで、
相手の中へ押しやった愛が自分の元へと戻ってくる。
というわけで、毎度おなじみのフィリピンにいる。
工場で、9月の月次をまとめている間も、ともすれば、
裁こうとしている自分を認識しながら過ごした。
前回も書いたように、声を意識的に低くすることで、
意識状態になろうとする心を警戒するようにした。
最初はちょっときついけれど、大気圏を抜けてしまうと、
後は案外、ラクに聖霊の軌道に乗れる。
こうして実践してみると、
夢の映像に対する反応から、妄想劇場に至るまで、
全て自分の心の中だけで起きており、
赦すのは自分の中だけだ、ということが理解できる。
例えば、
今年4月に社員の所得税申告をした筈なのに、
まだ納税通知が来ない、とエドワードに指摘され、
何か申告に問題があったのかと不安になる。
申告漏れがあれば、会社に罰金が課せられるので、
自分のミスで大変な事になる、という恐怖に襲われる。
本当は、ミスがあったとしても、税務署に問い合わせ
修正申告をすれば済むことなのだが、
心はとっさに、恐怖で自分を裁こうとしてしまう。
こんな時、彷徨い出ようとする心の中を常に見つめ、
〝裁きの妄想劇場〟が起これば、即座に取り下げる。
僕の場合、その時々で取り下げ方は違うのだが、
「神は愛であり、愛は決して脅かされない。」
「私は聖なる神の子だ。何かを裁くような存在ではない。」
と、宣言したり、また、あまりにひどい妄想だと、
「悪魔(自我)よ去れ!」と一喝する場合もある。
そうやって、認識して、取り下げて、入れ替えた後、
自分の中に神の愛が復帰するのを確認し終了となる。
とまあ、そんな感じで、昨日フィリピンから戻ってきた。
フィリピンも北の方は一年中猛暑、というわけでもなく、
朝夕は過ごし易くなっていた。
ショッピングモールにはジングルベルが流れ、
街はすでにクリスマスムードが漂っている。
しかし、クリスマスツリーの横にハロウィンのかぼちゃ
が吊るされていたりと、訳がわからない。
いつものセブパシで、午後10時に香港に着いた。
空港から市内に入ると、セントラル駅が閉鎖されていた。
最近、改札口の破壊行為が連発しており、その影響で、
閉鎖されているようだ。
仕方がないので、チンチン電車で家まで帰った。
この週末は一歩も家から出ず、お籠りをして過ごそう。