クリスマス休暇真っ最中のボクである。
今回は、時々ジムに行く以外、
家で内なる神に浸って過ごすと決めているので、
心はいたって平安である。
もう心の中にどんな憎悪や攻撃が湧き上がってこようと、
これは自分のせいで起きているのではなく、そもそも、
神の愛以外は実存ではないと分かっている中で、
微笑みながら聖霊と共に見すごしてゆく。
仕事も無く、明日の支払いもままならないのに…、
病気で苦しんでいるのに…、人間関係最悪なのに…、
どうやって神の中で悦んでいろと言うんだあーっ、と、
思わず逆切れしそうになる人もおられるかもしれないが、
それ全部、すでに撮り終わった過去の映像であり、
終わったシナリオを見ている。
仕事が見つからず、支払いができなかったとしたら、
それはそういうシナリオであっただけであり、
ある人の一言がきっかけで関係が悪くなったら、
それも、すでにそうなるように〝仕組まれて〟いたのだ。
神の悦びとは一切関係がないし、それに最も重要なのは、
それらは自分が起こしたことではないということだ。
なのにそれを、自分が引き起こした、自分がやらかした、
と信じてしまっていることに唯一の問題がある。
要するに、良いことも、悪いことも、
僕達は何一つ自分で成し遂げたことなどないのだ。
全ては撮り終えた映画を追体験しているだけであり、
お金が心もとないのも、あの人に嫌われているのも、
こういうシナリオ通りに事が運んでいるだけである
なので、どうしてこんな羽目に陥ってしまったのか、とか、
あのとき、ああやってれば人生違ったのに、とか、
また、あいつさえいなければ、というのもシナリオであり、
それは、自分のせいではない。
それさえ理解できれば、銀行口座に千円しかなくても、
気が滅入るような出来事があっても、攻撃されても、
ただ、反応せず、見過すだけである。
そうやって神の実在の中だけに在る時、
すでに聖霊とひとつになっている。
聖霊は別人格でも何でもなく、正気な自分の象徴だ。
だから、神を思い出した瞬間、自分は聖霊と共にある。
聖霊は、
I AM…(私は在る)を I AM NOT…と否定する。
そうすることで、GOD IS(神は在る)へと導く。
これからは、金銭問題も、人間関係も、仕事も、
それらの出来事からくる恐怖は、実のところ、
神を見ないようにしていた、ことからくる恐怖だった
ということになる。
そう。
僕たちは、大いなる勘違いをしているのだ。