30日は、ただ、家でぼーっと、脱力して過ごした。
ネットもせず、テレビも見ず、本も読まず、酒も飲まず、
トイレへ行くのさえ面倒くさく、体も思考も停止状態、
ソファの上で、天井を眺めながら、ただ放心していた。
夜中になってようやくサバの缶詰の夕食を済ませ、
それから、クラウド録画で、レコード大賞を見た。
氷川きよし以外、全員グループなんだね。
それから、
キャンディーズの伊藤蘭が『年下の男の子』を歌ってた。
この人、65歳くらいなのに、声も体型も当時のままだし、
この若さはスゴすぎる!
欅坂46の『黒い羊』もよかった。平手のファンになりそう。
それにしても、クラウド録画って便利だと思う。
民放、CS、BSの全ての番組が自動録画されていて、
見たい番組を見たい時に見れる。
それに、CMや興味のない映像はすっ飛ばせるので、
このレコ大も、一時間ほどで見終わっちゃった。
お気に入りの映画もUSBにコピーできるし、
そういう意味で、時間は消去されることで、
どんどん加速していっているのかもしれない。
こうやってユルユルと過ぎる年末年始の時間を、
〝自分の後ろ側〟の中で過ごしている。
後ろ側では、神の〝愛してるよ〟だけが実在しており、
その愛に触れるには、黙して語らぬ環境、つまり、
今のような、概念を使わない状況が必要なのだ。
働いたり、子育てしたり、生活しているモードでいると、
I AM(私はいる)で愛を解釈してしまうので、即行、
〝愛してるよ〟は〝愛して欲しい〟にすり替えられる。
よって、心が静かに自分の内側と向き合える時に、
I AM NOT(私ではない)=それは起こせてない、
と、兄貴によって概念(外側)が取り消されることで、
自分が取り消され、GOD IS(神は在る)へ至リ易くなる。
I AM(私はいる)で否定した神を、
I AM NOT(私はいない)と再度否定されることで、
本当は、神の愛しかなかった、と認識されてくる。
要するに、神からの愛してるよ、という悦びを感じている
主体としての〝私〟が、真の自己(霊)なのではなく、
感じられている側、つまり、愛してるよ、
という想念の方こそが、本当の自分(スピリット)なのだ。
赦しを実践して、神に気づいたこの〝わ・た・し〟が、
父が待つ故郷へと帰ってゆくのではなく、
初めから故郷にいる私(霊)に気づくこと、すなわち、
本当の自己を発見するとは、自分が愛そのものだった
と知覚することこそが、心の機能となる。
そして、正常な心の機能とは、
最初に神を知りたい(愛したい)という意志をもつことで、
神の愛を体験し、結果その神の想念こそが自分だった、
という理解が起こることである。
そういう意味で、
いま、何もせずに、ぼーっと脱力していればいるほど、
兄貴は、間違いの取消しに奮闘してくれているのかも。