今日は、トレーナーとの筋トレセッションの日だったので、
昨夜、明け方までグダグダと色々やっていたのだが、
午前11時には起き、ジムのあるセントラルへ向かった。
おかげで、
日中を寝て過ごすことなく、一日を無駄にせずに済んだ。
今回は下半身と背筋を集中的に鍛えた。
スクワットではもう、吐き気を催すくらいキツかった。
それでも、身体はだいぶ絞れてきていて、
年末年始にドカ食いさえしなければ、一時帰国の頃には
目標体重58KGを、なんとかクリアできそうだ。
そして、今日の香港の気温は18℃、終日雨だった。
西洋人やフィリピン人が休暇で帰国しているせいか、
街は比較的静かで、夕食は冷凍餃子を焼いて食べた。
夜は部屋でまったり白ワインを飲みつつテキストを読む。
テレビ、ソファ、観葉植物、パソコン、中国家具の数々、
部屋中が〝愛してるよ〟と言っている。
厳密に言うならば、
これらのモノが愛しているよ、と言っているのではない。
その背後に流れている、自分は神から愛されている、
というメッセージを通して世界を観るから、
全てが愛の象徴に見えている。
↑ 得意先の工場のポスター。
「ケンカはご法度!
負けたら入院、勝ったら牢獄。」
例えば、スマホを〝私のスマホ〟として見るとき、
自分の中の、愛されたい、愛して欲しい、という欲求を、
スマホによって満たそうとしている。
しかし、スマホを神の反映として見るとき、
それは、神に愛されている、というメッセージとなる。
これは、周囲にいる兄弟たちについても言える。
目の前で誰が自分を攻撃していようと、
誰かが得をして、自分が損しているように見えようと、
彼らから受け取れるメッセージは、ただ、愛している、
という呼びかけだけである。
お気に入りのゲームや、愛車や、職業や家、または、
自分を愛してくれる何某、など、
これらを獲得することで、愛が得られると思っている。
ノー!
本当のメッセージは、神からの愛してる、だけ。
そして、このことを思い出すことが、赦しとなる。
じゃあ、どうすれば…、という話なのだが、
それには先ず、
誰かから愛されようとするのを一切止めることだ。
逆に言えば、もう誰からも愛されなくたって構わない、
だって神から愛されているから、と開き直ることでもある。
なぜなら、僕達は、
一秒たりとも神から愛されていなかった瞬間などなく、
その愛は常に変わることなくここに在ったので、
形態的な愛など必要ないからだ。
だが、僕達はあまりにもカタチある愛を信じてきたので、
愛されたい、から、愛されている(愛している)へと、
そう簡単には移行できないのも事実だ。
なので、幻想を見て、その奥にある本当のメッセージを
受け取る習慣をつける訓練が必要になってくる。
ガミガミ言ってくる誰かと対峙した時、
大好きなスマホゲームの中に没入しそうになった時、
また、お気に入りの車、洋服、場所、人間関係に於いて、
そこに形態的な意味を見出すのではなく、
それらの奥に在る〝愛してるよ〟を発見し続けること、
そういった訓練が決定的に必要となってくる。
そして最後には、
神の愛しかないことが体験的に理解できてくると、
もう、そういった訓練も必要なくなる。
というわけで、明日は、
香港そごうでも覗いてみようかなと思っている。