今日は、銀行と保険会社へ行く用事があったので、
3時ごろから外出し、そのまま5時ごろに直帰した。
保険会社のある湾仔から、自宅のある銅鑼灣まで、
久しぶりに、何の目的もなく、ただぶらぶらと歩いた。
気温も18℃くらいで心地よい。
初めて香港の女の子とデートしたボストンレストランや、
昔、毎週のように通っていた香港麻雀館の前を通る。
この界隈は、まだ古き良き香港の雰囲気が残っていて、
街並みも、僕が香港へ来た頃と、あまり変わっていない。
こうしてノスタルジックな気分に浸りながら、
自分は本当にこの街が好きなのだな、と思った。
そして、この〝好き〟という気持ちが呼び水となり、
景色が愛の悦びに変わった。
というわけで、最近の僕は、やたら、愛だの悦びだのと
シュワシュワシュワシュワ、うるさい限りなのであるが、
シュワシュワと、実体無く起きてくる思考の泡ぶくを、
掴まず、解釈せず、また、何とかしようともせずに、
湧いてくるものを消えてゆかせるままにしていると、
なぜか、とてもリラックスした気持ちになれる。
そうやって、
問題を見過して実在させずに、それを真実と取り換える。
問題や批判的な感情が起こった際に、
思考を凝視するのではなく、ただ行かせることで、
真の自己は霊(スピリット)だったと思い出す。
それが、真実(神)と取り換える、の実践的意味である。
ある意味、僕たちの機能は、訂正することではなく、
存在しないものを見すごす能力にあると言える。
なぜなら、訂正をする〝自分〟などいないからだ。
僕たちの心が、実存(神の想念)を選ぶことで、
聖霊(量子)が、別の時間と空間において、
まったくこれまでとは違うシナリオを用意する。
俗な言い方をすれば、これぞまさしく、
究極の〝引き寄せ〟なのではないだろうか。
だが、シナリオを変えるのは自分ではない。
シナリオの一部である自分には、何も変えられない。
しかも、
そのシナリオさえ起きていなかった、というオチ付きだ。
もう、常に、ここに在る〝神〟そのものでしかない。
不変で普遍の完ぺきな愛そのものでしかない。
と、そんな感じで、家の近くまでやってきた。
途中、棋哥燒味店でチャーシューを半斤買って帰る。
サクランボが安くなっていたので、1ポンド買った。
あっ、ケチケチ生活で行くはずだったのに…。
まっ、これもシナリオということで…。