👆 JRの駅前やのに、なんで阪急やねん!👆
明日で二週間にわたる一時帰国が終わる。
明日は移動日なので、実質的には今日が最終日となる。
この二週間は、本当に、いまここに在る神に抵抗せず、
いまここに在る神に気づきながら過ごせた。
毎日忙しく仕事をしていると、
ときに、勝手に起きてくる事象を見過ごすことができず、
それに反応している自分を自分だと思い込んだりする。
そういう意味で、今回の休暇は、ずっと実家にいて、
ゆったり、まったり、神の中の自己を認識していた。
ただ、思考だけが起きており、それは自分ではない。
思考同士がシュワッ、シュワッ、と会話しているだけで、
思考が自分だと思う、別の〝思考〟によって、
自分がこんな事を思った、言った、やったと考えている。
そこから、本来、存在するはずのない自分が、
あるはずのない罪悪感を生み出している。
起きてくる一つ一つの事柄を、自分が起こしている、
という錯覚が、罪悪感の源となっている。
一つ一つの起こっているように見える出来事に対して、
そこに赦すべき自分などいなかった、と、
〝心〟が気づくことが〝本当に無い〟赦しとなる。
個の自分がいない、思考しかない、という事実は、
信じるか信じないかではなく、悟って解かることでもなく、
何かをふっと思う、思いの源を見れば誰でもわかる。
言い方を変えれば、
あの件に関してはこういう風に対処しよう、とか、
あの人の事をこんな風に言おう、という思いが〝ふっ〟と
出てこない限り、それをすることも、言うこともできない。
その〝ふっ〟に主体はなく、ただ湧き出ているだけだ。
本当の自分とは何の関係もない。
真の自己は神の中にあり、神に気づくことで見つかる。
神に気づくには、出来事に抵抗しないこと。
神はずっとここに在って、一ミリも動いたことがない。
それを知るには、いまここで一ミリも動かず、見る。
そうして、自分はすでに父の元に帰っており、
その、すでにそこにいる自分が自分だった。
明日香港へ戻る僕のために、母がマスクを持たせようと
あちこち奔走してくれたのだが、
やはり、品切れだったらしく、そこで何を思ったのか、
母は、父が自分用に買ってあったマスクを、
持って行け、と僕に箱ごと差し出した。
「これはわしのやろ。なんでやらなあかんねん!」
と、父が母に詰め寄る。
「また、売ってるときに買うてきたらええやんか。」と母。
「さっき、どこにも売ってへんって言うてたやないか」と父。
「家から出えへんかったら、感染もせえへん。」と母。
会社がマスクを手配して送ってくれてるから要らんよ、
と僕が言っても、すったもんだは収まらず、
そうしてひと悶着するうち畳にマスクがぶちまけられ…。
結局、20枚ほどもらってスーツケースに詰めた。
それにしても、おそるべし、母の愛。
父は、それから3分もしないうちに、
マスクのことは忘れ『徹子の部屋』を見て笑っている。
ああ、いまに在るとはこういうことなのか。
父を見習おう。