香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

瞬間の輝き

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婚姻関係、お店、家、お金、人気、栄光、若さ、など

 

続いているかどうか、今も残っているかどうか、が、

 

この夢の世界では、幸せの基準になっている、

 

ような気がする。

 

 

思いつくままに挙げれば、

 

結婚何十年で、今もラブラブだと勝ち組で、

 

子供を三人抱えて離婚していたら負け組、とか、

 

何百年続く老舗の名店は素晴らしく、

 

名店だったが閉店してしまったら終わり、とか、

 

金メダルを獲り、栄光の真っただ中にいた選手が、

 

怪我で選手生命を絶たれたらただの人、とか、

 

他にも、若いときは絶世の美女だったのに…、

 

みたいに、いまもそれが継続されているか、

 

好いとされているものの状態が今も残っているか

 

が、価値の決め手となっているところがある。

 

 

僕で言えば、香港で駐在員を継続させることこそが

 

平安であり、幸せなのだ、と思い込んでいたので、

 

去年の冬に、東京帰任の辞令が出た途端、

 

不安感や喪失感で、上へ下への大騒ぎとなった。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

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しかし〝いま〟という視点から見たとき、

 

継続していても、していなくても、同じだと解かる。

 

今、この瞬間の神をじっくり味わうことをしていると

 

たとえ一瞬しか続かなかった幸せであっても、

 

当時のその瞬間に味わった〝その時の今〟の

 

幸せな感覚は、まぎれもなく神であり、

 

その神は今もここに在る。

 

だから、いま、この瞬間に在る神を味わえば、

 

カタチが変化していようが、無くなっていようが、

 

それはもう永遠に、ここに在る、と解かる。

 

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👆 お気に入りのパン屋。
 

 

すっごくショボい例で恐縮なのだが、

 

昨日、仕事帰りに、明日の朝食べるパンを買おうと

 

バスを乗り継ぎ、お気に入りのパン屋へ向かった。

 

その店のクロワッサンとスコーンはもう絶品で、

 

明日から4連休だし、明日の朝は、

 

コーヒーとハムエッグと美味しいパンを食べながら、

 

オシャレでアンニュイ(しょうわーっ)な朝を過ごそう

 

と思いたったのだ。

 

しかし、そのパン屋は、新型コロナの影響で、

 

時短営業をしており、僕が到着した時には、

 

すでに閉店した直後だった。

 

普通なら、これを肉体ベースで見てみると、

 

わざわざ来たのにツイてない、時間の無駄だった、

 

パンを買うというこの一連の行動は無意味だった、

 

なんで事前に調べなかったんだ、後悔―っ、

 

となるのだろうが、神を味わうという観点で見れば、

 

目的が達成されたかどうかは関係なく、

 

そのパン屋へ来るまでに観た景色、

 

明日の朝食べる朝食を想像していた時の喜び、

 

iPodで聞いていた音楽、その瞬間に味わっていた

 

歓びの感覚は紛れもなく神の想いである。

 

別の言い方をすれば、その歓びの感覚(神)は、

 

愛する人やお金や仕事から来ているのではなく、

 

自分の中から来ているので、今味わおうと思えば、

 

呼吸しているだけでも得られる、ということである。

 

 

もっともっと言ってしまえば、

 

いま、この瞬間に感じているものが、

 

たとえ不安感や、恐怖感や、喪失感であっても、

 

やはりそれも、神の愛の感じの〝裏返し〟だ、

 

と解かる。

 

 

なので、いま、見えている光がなんであれ、

 

何の解釈も差し挟まず、観とめ、聞きとめ、

 

味わった感じをただ差し出してゆく。

 

 

で、結局パンは家の近くのエーワンで買った。(笑)