今日は返還記念日で国家安全法の施行日である。
それでも、僕の家の前は、国安法に抗議する
多くの市民で埋め尽くされていた。
すでにデモは禁止されているので、大通りを歩かず、
一本逸れた小さな道を、ちょっと街ブラしてます、
といった感じで、大勢の人たちが行進する。
これなら、デモではなくただ道を歩いているだけ、
なので、逮捕することはできない。
それと、50人以上の集会も禁じられているため、
すっごくゆっくりとぐるぐる移動しながら、歩く。
これなら、移動しているので集会には当たらない。
すごい! ここまでくれば、もう感動しかない。
こんな感じで、
激動の香港であるが、僕の意識も激動中である。
前出のタメ口事件のように、ふとした拍子に、
自分の中の無価値感や罪悪感が浮上してくる。
しかし、これはもう、神を選択した結果であり、
神が入ったら自動的に出てくる、
いわば通過儀礼のようなものだと観念している。
ただ、これらの〝びゅんびゅん〟を、
みぞおちの祭壇に放置して見過ごしてゆく。
その後は、今、この瞬間に在る神に抵抗せず、
〝神〟というひとつの解釈だけを受け容れてゆく。
ああ、出てきた出て来た、オッケーオッケー、と、
深刻にならずに、こうして罪悪感や無価値観からくる
不快感を見過ごしてゆけるのも、やはり、
先に〝神が入っている〟からだ、と思っている。
神が先手、というか、
罪悪感を手放すから、神が感じられるのではなく、
神を思い出した結果として、それにそぐわない、
罪悪感や無価値観が、出来事をきっかけとして、
浮上してくるのだと思うのだ。
だから、深い動揺や不快感に襲われても、
まあ、きついのはきついが、ある納得感を以って、
これも兄貴による最善の采配だ、と赦せるのだ。
そしてこれも人それぞれなのだが、僕の場合は、
自我の解釈を取り下げる、とか、再度選びなおす、
というより、初めから、神という一つの解釈だけを
受け容れてゆく方が、すんなりと神を感じられる。
なぜなら、いくら解釈だけが問題だと言われたって、
肉体を持って毎日何らかの活動をしている限り、
解釈をせずに日常を過ごすことなど不可能だし、
罪悪感や無価値観を感じた時点で、
すでに解釈をし終わっているわけで、
それを取り下げ、選びなおすなんて、
僕には到底無理だ。(笑)
何だか今年は、
あっという間に過ぎ去ってしまう気がする。
まあ、これも神の流れに乗っている、ということで…。