湧いてくる想い全てが聖霊兄貴だった、と観念して、
ただ、見過し続けている今日この頃である。
今、この瞬間に湧いて出てくる想いは、
歓びであれ、悲しみであれ、やはり神の想いであり
湧いて出てくる全ての想いに抵抗しないことが、
今、この瞬間の神に抵抗しない、ということである。
湧いてくるものに抵抗せず、出るに任せていると、
出て来た不快感を好くないものと解釈して、
押しやっていたのも自分だった、と気づく。
そしてその時、僕たちは神に気づいている。
神に気づくとは、神の想いに気づくことであり、
愛(ハートの悦)の激流に乗ることを意味する。
愛の激流の中ではもう巨大な愛されてる感しかなく
それは完ぺきな100%の肯定感である。
たとえ、憎しみのようなネガティブな感情であっても
やはりそれも、神に愛されたかっただけだった、
となり、最後は神の愛へと行きついてしまう。
小さな喜びが、神の愛の激流への呼び水となる。
というわけで、今日は、仕事帰りに、
カラフルな色彩の食器を売る店の前を通り掛かり、
ふと、家の食器を総入れ替えしよう、と思い立った。
総入れ替えと言っても独り暮らしなので、
お皿と、茶碗と、小鉢が少しあれば事足りる。
こういう店は、前借りていた店舗が出ていき、
次の店舗が内装を始めるまでの数日間だけ、
安い家賃で借りて商売をする臨時店舗で、
今日買わなければ、次はもう無いのである。
好きな食器を選び、それを使うことで、
気持ちがホッと和むような〝瞬間〟を味わう。
何をやるかではなく、
心の中の〝いい感じのエネルギー〟が大切だ。
この身の丈に合ったチョロチョロ多幸感こそが
愛の激流へと繋がってゆく呼び水となるのだ。
なにはともあれ、心の矢印(方向性)を、
神の愛の流れに合わせるのが先決である。
そうすれば、あとは、勝手に流れてゆく。
それが、聖霊の采配だ、と思っている。