👆 僕は辛いものが大好きである。
タイ専門食材店で見つけた、
擦りおろし生唐辛子が目下のお気に入り。
うどん、ラーメン、チャーハン、
もう、何にでもこれをぶっかける。
洗っても取れない、シミの付いたワイシャツ、
ヒビが入ってしまったお気に入りのコーヒーカップ
つっけんどんな店員さんの応対、
デカい声でしゃべる女の同僚、
ニュースで報道される菅総理、小山田氏、など、
先日の〝音楽イベント警官隊突撃事件〟以降、
以前なら、
即行、名指しで断罪したくなるような対象たちが、
なぜか今、愛おしくて愛おしくてたまらない。
これまで僕は、
どれほどたくさんの人や物や事柄を指さしながら
「彼はあそこが欠けている、はいダメッ、有罪!」
と、安心しながら〝ニヤッ〟としてきたことか…。
その密かな楽しみに、ガガーン、と気づいて、
責めずに、全てを愛の眼差しで見てゆけば、
全てが反転して、何もかもが愛おしくなった!
この神を感じている時の、純粋に喜んでいる感じ
大好きでたまらない感覚というのは、
本当に言葉では表現できない。
例えが下世話で申し訳ないが、なんていうか、
セックスの絶頂(オーガズム)を言葉で説明しろ、
と言われてもできないのと同じな気がする。
神の絶頂を感じるのに言葉は不要である。
そうなのだ、この人を、この場所を、この瞬間を、
ただ、感じていればよいだけだった。
無理に言葉など発する必要はなかったのだ。
なのに、同僚とエレベーターで一緒になれば、
何か話さなければ不愛想な人に思われてしまう、
とか、みんなで雑談をしている時には、
嫌われないように話の輪に入っておかねば、
とか、何か言われて、無理に笑おうとしたり、と、
謎の強迫観念に駆られて喋りまくっていた。(笑)
笑いたくなければ笑わなくていいし、
言葉を発したくなければ黙っていればいい。
ただ、いま、この瞬間に在って、彼の、彼女の、
その場所の裏に流れる〝愛の感じ〟を
ただ感じていればよいだけだった。
👆 最近、タイの食べ物にハマっている
辛~いソーセージがお気に入りで、
ウィスキーのロックのつまみになっている
まあ、誤解を避けるために言うならば、
〝じゃあ喋らなければ神を感じられるんだね〟
という、マニュアル的な話ではない。
背後に流れる神の気配、神の感じを、
先に〝体験〟していなければ、
カタチだけ沈黙しても意味がない。
今の職場は女性が多いので、仕事中も、
彼女たちの雑談がしょっちゅう聞こえてくる。
しかし、話している言葉にとらわれずに、
表層を流れる言葉を信じずに見過ごしていると、
その裏を流れている愛おしさがわっと押し寄せ、
語られている言葉の多くが〝ウソ〟であることが
本当によく理解できる。
そうなのだ。
日常会話で発せられる言葉の殆どは嘘なのだ!
僕だって、雑談程度の中で誰かと話す時に
出てくる言葉は、99.9%本当の言葉ではない。
だから、最近は職場でも、
皆が話す言葉を全く信じない、を実践している。
口から出る言葉を信じなくてよいことが解かると
すっごく気持ちが楽になる。
そう、ぜーーんぶ、江後田自我男がやっていた!
もし、このとき、自分も彼女たちと一緒になって、
なんやかんや話し込んでいたら、
決して、このウソには気づけなかっただろう。
言葉を見過ごすとは、言葉を信じないことであり、
それが、沈黙する、の実践的意味だった。