前回の記事でも書いたが、
自分や、家族や、花や、鳥や、悲しい出来事など
あらゆるものに神(無限の全体)が湧いていて、
それそのもの〝ひとつ〟でしかないことが、
はっきり智覚されてくると、どんどん世界が、
〝ひとつ〟(神)へと収斂されてくる。
これを説明するのはすっごく難しい。
私の気配はあるけれど、実体はどこにもいない。
テレビと認識してはいるけれど、テレビではない。
怒りは湧くけれど、怒っている主体がいない。
全体がひとつとして顕われているだけだ。
以前は、瞑想とかをしながら、
無限の全体を感じよう、としていたが、近頃は、
無限の全体という領域があるのでもなければ、
そこへ到達する誰かがいるのでもない、
すでにもう〝全体でソレ〟そのものであり、
自分は自分ではなくもう無限の全体なのだ。
肉体を持った個の自分という感覚はあるのだが、
何かに抵抗している自分が消えるているので、
緊張していても、落ち込んでいても、怒っていても
それに対して何とかしようという抵抗が起きない。
素直に緊張し、優しく落ち込み、気持ちよく怒る。
どんな感情も、悦びや、愛おしさや、大好き、
といった感覚と同様に愛として立ち上がってくる。
今日も、もうすぐ帰国するので、
ネット回線の解約を申し込んだのだが、
カスタマーサービスから電話がかかってきて、
契約期限が2023年まで残っているので、
解約金5万円払え、と言ってきた。
なんか、キュンキュンしながらケンカした。
また、これまで、無限の全体(神)が顕われている
という表現をよく使ってきたが、
無限の全体〝から〟何かが顕われるのではなく
顕われているように見えているそれらがもう、
無限の全体なのだった。
それから、自分に向かう、自分に訊く、
自分の本音に従う、自分に優しく寄り添う、
という表現もよくしてきたけれど、これもまた、
全体が神であり、神しかなかった、
へ辿りつくためのプロセスだったと今ならわかる。
なぜなら、一瞥体験とかをして、
一気に全部解かった、というのならともかく、
いきなり神に向かい、神に訊き、神に従い、
神に寄り添おうとしても無理だからだ。
だからまず、自分から始める。
ただ、上記に述べたような今の〝境地〟は、
悟ったのでもなければ目醒めているのでもない。
今の僕の〝状態〟を伝えているだけである。
なぜなら、個の自分としての僕はまだ、
この幻想世界で何かをしたいと思っているし、
ただ単に、僕の世界に対する認識が変わり、
別の探求ストーリーが始まっただけだからだ。
でも僕は、それでいいと思っている。
なぜなら、
僕が知覚している〝神の愛の想念〟は、
あまりに圧倒的で否定しようがないものだから。