机、パソコン、ワイン、観葉植物、自動車、建物、
見えているもの全てに神が湧きだしている。
また、カフェの店員さん、守衛のおじさん、友人、
果ては、兄貴に至るまで、存在する全ての人に
神がシュワシュワと湧き上がっている。
そして香港では、オミクロン株拡大のため、
今日から14日間、6時以降の外食は禁止、
ジム、サウナ、バー、も終日閉鎖となったが、
こうした起こっている事全てに
神が湧きおこっている。
あらゆるものの中に、
神を見たり感じたりする、のではない。
ただ神が湧いて出ているだけである。
なぜなら、神を見る、神を感じる、と言ってしまうと
どこかに神を見たり感じたりしている誰かが
存在しているような錯覚に陥ってしまいがちだが、
実際には、私という観察者などはどこにもなく、
ただ無限の全体が、泡ぶくのように、
モノや人や私となって〝湧いて〟いるだけである。
肉体の自分にはまだ(正常な)自我があるので、
机とパソコン、私と田中さん、怒りと不安、の間に、
きちんとした比較認識はできているのだが、
その一方で、無限の全体としての自己が、
それらのものを、同一で、普遍で、均一な、
たったひとつの光(神)として知覚している。
そして、この〝神の知覚〟は、
今ここにあるものや今起こっている事に抵抗せず、
ただ〝今のそのまま〟へ委ねた時にやってくる。
それはまた、自分を消滅させる行為でもあるため、
それで僕たちは、いつも今に抵抗することになる。
今より給料が多くないとイヤや!
今さっきパートナーが言った一言が気に入らん!
今の経済状況では大変なことになる!
今の自分では、まだまだ全然アカン!
今住んでるとこより、もっといい所に住みたい!
これ全部、今ここに在る神への抵抗である。
そう言うと、上記のようなことを考えてはいけない、
と思ってしまいがちだが、それもまた抵抗であり、
イヤや、気に入らん、全然アカン、にも抵抗しない。
そうやって、湧いているだけのものをスルーすると
勝手に神が湧いて出て、勝手に消えてゆく様が
見えるようになる。
そうなると、頼んでもいないのに、
不思議と勝手に欲しいものが手に入ったり、
事がうまく運んだりする。
こう書くと、なんだかノンデュアリティっぽいが、
僕の場合、多くの非二元の人が語っているような、
それしかない、ただ起きているだけ、
そこには何もない、といった感覚ではなく、
神しかない、神があるだけ、神が湧いてるだけ、
といった、
爆発的なエクスタシーや愛の想いそのものとなり、
自分がキュンキュンそのものになっている。
自分が悪い、という罪悪感も、
自分なんか、という無価値感も、
今の自分ではダメだ、という抵抗を止めて見ると、
ただ、神が湧いて出ているだけであり、
そのままで全然大丈夫だと解かる。
神だけになると、
抵抗している主体となる自分が消える。
思い返せば、このブログの中で、
自分を責めない、気分がホッとすることをする、
起こっていることをそのままを受け入れる、
というようなことを繰り返し述べてきたが、
これら全ては、
今この瞬間に在る神に抵抗しない、に繋がる。