香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

寒梅

 

 

今の僕は週三日しか働いておらず、他の時間は、

 

主に近所の喫茶店で、創作をして過ごしている。

 

授業の方も、生徒たちが中級に入ったので、

 

そんなに準備をしなくても事足りるようになってきた。

 

なので、創作に煮詰まると、すぐに車で出かけてゆく。

 

それで、先日、滋賀の長浜まで、梅を見に行ってきた。

 

 

 

 

すっごく寒い日で、長浜にはまだ雪が残っていた。

 

開花しきっていない冬の盆梅は、雪景色と相まって、

 

何とも言えない風情をかもし出し、とても美しかった。

 

その後、昔の近江商人たちの街並みを散策した。

 

この辺は空襲を免れたのか、古い屋敷が多い。

 

琵琶湖のほとりまで歩きたかったが、あまりに寒くて、

 

車で近くまで行き、ちょこっと写真だけ取って退散した。

 

 

 

 

帰りの車中、信号待ちで伊吹山を正面に見ていた時、

 

大きな愛の存在感に包まれて、泣いてしまった。

 

夢の光景がいくら変幻自在に変化し、消えて行っても

 

ずっと変わらず、そこにある〝存在感〟。

 

 

僕はもう、そこそこの年齢なので、

 

将来に不安がないか、と言えばうそになる。

 

お金だって、そんなにたくさんあるわけでもない。

 

しかし、その存在感はあまりにもクリアで、リアルで、

 

故に、ここは全部夢なので、心配することなどない、

 

と〝体感〟でわかっているので、

 

問題なく今に開いてじっとしていられる。

 

 

 

 

会社の同僚、家族、パートナー、友人、街行く人々、

 

これは幻想で真実ではない、と言いながらも、

 

確かに、ここに在る相手の存在感、そして、

 

赦しても、沈黙しても、聖霊に一致させて動いても(爆)

 

それでもまだここに在ると感じる不変で普遍の気配、

 

その存在感を智ることが決定的に大切になってくる。

 

でなければ、表面の出来事ばかりを追うことになり、

 

延々相手を赦そうとし、罪悪を見つめようとし、

 

兄貴に委ね続けることになるからだ。

 

これまで忌み嫌ってきたその存在感が、

 

本当は何だったのかを智った瞬間、

 

〝愛してるーっ!〟が怒涛の如く押し寄せてくる。

 

 

 

 

よく悟り系のマスターや、禅の導師が言うような、

 

〝これしかない〟〝自己の真相が明らかになる〟

 

〝意識が死に切った時の解脱しているナマの様子〟

 

〝自分という実態なんかない〟の言葉が示す、

 

その先にある表現しようのない〝存在感〟。

 

 

 

 

幻想の中にどっぷり漬かって生きる人たちは、

 

〝神〟や〝愛〟という言葉を嫌う人が多いが、

 

その存在感は神と愛でしか表現できないものだ。

 

しかし、それらの言葉を、言葉で理解し、

 

自分の中に取り込もうとすると、ずれていってしまう。

 

解釈ではなく、その存在感を体験すること、

 

そこには「どうやって?」という解釈はない。

 

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