今日は4時までの時短勤務だった。
隣りのデスクで、日本人の同僚が、
得意先とチャットをしながら、何やらテンパっている。
「ああイライラする。くそったれ!」
と叫んだかと思うと、何度もトイレを往復する。
顧客と大きなトラブルがあったようだ。
こういうとき、管理部でよかった、と思う。
一般的に営業は、会社の花形で、
自由に外出ができてラッキーと言われるけれど、
僕は一度も営業が花形だなんて思ったことがない。
お客との関係とか、アテンドとか、面倒くさい。
それにしても、くそったれ、なんていう言葉、
久しぶりに聞いた。
少なくとも僕は使ったことがない。
どこかの方言か?
今度、小説の中で使ってみようっと。
話は変わり、
ここ連日力説している神の気配についてだが、
僕の経験上、神の気配を感じるには、
先ず、意識が静まっている必要がある、と思う。
現状を改善するために行動しまくるのではなく、
どうすれば少しでもリラックスできるかを考える。
神に気づくには、何かをすることではなく、
何もしないこと、要するに、
究極にリラックスしまくることだといえる。
どんな、苦しみやプレッシャーの中にいる人でも、
大好きな安室ちゃんの歌を聴いている時だけは、
また、ゆっくり温泉に浸かっている時だけは、
そして、愛車を走らせている数時間だけは、
その苦しみを忘れ、ホッと寛ぐことができたりする。
すでに苦しみの状態で赦そうとしても無理なので
先ずはどんな手を使ってでも、一息つく、くつろぐ、
休養する、落ち着く、憩こう、ことを優先させる。
すぐに、恐怖や不安感や緊張感が蘇ってくるが、
それでも全然かまわない。押さえつけるのではなく、
その都度、いまの平安に何度でも意識を向ける。
これは、神の方へ意識を向ける訓練でもある。
これって、初めはすぐに不安が出て来て苦しいけど
慣れれば案外できる。
〝リラックスが一分〟からでいいのだ。
その一分間に聖霊が入ってくる。
何年か前、中国出張の際に、
解決せねばならないいくつかの案件に思いをはせ、
プレッシャーでバクバクしながら車に乗っていた。
そんなとき、高速道路がのろのろ渋滞となった。
ふと外を見れば、路側帯に一人のおばあさんが、
スカートを腰までまくってしゃがみ込み、
運子をしている姿が目に入った。
それも、かなり上品そうなおばあさんで、
きょろきょろと通り過ぎる車を眺めながら、
ニコニコ楽しそうに用を足している。
もちろん、何もかも丸見えである。
その姿を見た瞬間、僕はもう全てがどうでもよくなり
プレッシャーのバクバクもすっ飛んでしまった。
なんかもう、この世界の全てが重要ではない、
と悟ったのだ。
散歩をする。
花を見つめる、風を感じる、鳥の鳴き声を聞く、
いま、この瞬間の気配を凝視する。
そこに花が在ると認識させている何か、
その奥にたゆたう、不変の〝在る感じ〟。
その存在感に気づく。