香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

くそったれ!

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今日は4時までの時短勤務だった。

 

隣りのデスクで、日本人の同僚が、

 

得意先とチャットをしながら、何やらテンパっている。

 

「ああイライラする。くそったれ!」

 

と叫んだかと思うと、何度もトイレを往復する。

 

顧客と大きなトラブルがあったようだ。

 

こういうとき、管理部でよかった、と思う。

 

一般的に営業は、会社の花形で、

 

自由に外出ができてラッキーと言われるけれど、

 

僕は一度も営業が花形だなんて思ったことがない。

 

お客との関係とか、アテンドとか、面倒くさい。

 

それにしても、くそったれ、なんていう言葉、

 

久しぶりに聞いた。

 

少なくとも僕は使ったことがない。

 

どこかの方言か?

 

今度、小説の中で使ってみようっと。

 

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話は変わり、

 

ここ連日力説している神の気配についてだが、

 

僕の経験上、神の気配を感じるには、

 

先ず、意識が静まっている必要がある、と思う。

 

現状を改善するために行動しまくるのではなく、

 

どうすれば少しでもリラックスできるかを考える。

 

神に気づくには、何かをすることではなく、

 

何もしないこと、要するに、

 

究極にリラックスしまくることだといえる。

 

 

どんな、苦しみやプレッシャーの中にいる人でも、

 

大好きな安室ちゃんの歌を聴いている時だけは、

 

また、ゆっくり温泉に浸かっている時だけは、

 

そして、愛車を走らせている数時間だけは、

 

その苦しみを忘れ、ホッと寛ぐことができたりする。

 

すでに苦しみの状態で赦そうとしても無理なので

 

先ずはどんな手を使ってでも、一息つく、くつろぐ、

 

休養する、落ち着く、憩こう、ことを優先させる。

 

すぐに、恐怖や不安感や緊張感が蘇ってくるが、

 

それでも全然かまわない。押さえつけるのではなく、

 

その都度、いまの平安に何度でも意識を向ける。

 

これは、神の方へ意識を向ける訓練でもある。

 

これって、初めはすぐに不安が出て来て苦しいけど

 

慣れれば案外できる。

 

〝リラックスが一分〟からでいいのだ。

 

その一分間に聖霊が入ってくる。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

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何年か前、中国出張の際に、

 

解決せねばならないいくつかの案件に思いをはせ、

 

プレッシャーでバクバクしながら車に乗っていた。

 

そんなとき、高速道路がのろのろ渋滞となった。

 

ふと外を見れば、路側帯に一人のおばあさんが、

 

スカートを腰までまくってしゃがみ込み、

 

運子をしている姿が目に入った。

 

それも、かなり上品そうなおばあさんで、

 

きょろきょろと通り過ぎる車を眺めながら、

 

ニコニコ楽しそうに用を足している。

 

もちろん、何もかも丸見えである。

 

その姿を見た瞬間、僕はもう全てがどうでもよくなり

 

プレッシャーのバクバクもすっ飛んでしまった。

 

なんかもう、この世界の全てが重要ではない、

 

と悟ったのだ。

 

 

散歩をする。

 

花を見つめる、風を感じる、鳥の鳴き声を聞く、

 

いま、この瞬間の気配を凝視する。

 

そこに花が在ると認識させている何か、

 

その奥にたゆたう、不変の〝在る感じ〟。

 

その存在感に気づく。