解釈を取り下げる、解釈しない、という言葉を、
コース兄弟であれば何度も耳にしたことがあるだろう。
しかし、
実際、そんなことできる人などいるのだろうか、
といつも思っていた。(今も思っている…)
それは、
目の前にコップが見えているのに、見えていない、
と主張しているのと同じで、相当な無理がある。
だって、取り下げる前に解釈してしまっているし、
瞼を開けたら何かが〝勝手に〟見えるのと同様、
考える、という働きは人間の脳の機能であるからだ。
自分にとってなにか不都合な解釈をした、と、
意識が気づいた時にはすでに解釈は終わっている。
それを取り消すなんて無理である。
昨日、地下鉄で通天閣で有名な恵美須町へ行った。
エレベーターで地上に上がるとき、
若い中国人のカップルが乗り込んできた。
彼らは扉を閉めるボタンの前でスマホを見ていて、
一向にボタンを押す気配がない。
一瞬、むかっ腹が立った。
扉の前にいてボタンを押さないのはマナー違反、
だから中国人はだめなんだ、ホントサイテー、
という解釈がパパパ、と自動的に立ち上がってきた。
以前の自分だったら、こんな解釈をした途端、
ダメダメ、これは自我だ、赦すのだ、とやっていたが
赦すも何も、もう出てきたあとで、後の祭りである。
こいつらサイテー、で何ら問題ないと解かっている、
何ら裁く必要がないことを理解している。
なぜなら、それは自分が思ったのではないからだ。
ふっと出てきた思いを自分だと思っている。
兄貴に返して明らかになるのは、愛だ。
正確には、愛という言葉でも表現できない、
理解不能ななにか…(笑)
解釈するのは、目や耳や鼻の機能と同様、
人間に備わった脳(意識)の働きに過ぎない。
問題なのは、その機能(意識)を〝自分〟だ、
と錯覚して、自分で何とかしようとすることである。
聖霊に一致させて動いたり、兄貴に任せるのも結局、
一致させたり、任せようとする自分が居る時点で、
自分で何とかコントロールしようとしている。
ただそのままでいさせること、
それが、一瞬沈黙する、の真意となる。
一瞬一刻、湧き上がる思いに開いている。
抵抗せず、そのままの想いを恥じない。
この一瞬の静寂の中から、神が立ち上がってくる。