香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ムシムシ男

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今日は、銀行まで、小口現金を下ろしに行ってきた。

 

秘書のケリーが退職してからというもの、

 

自分で銀行へ行き、自分でお金を下ろしている。

 

それだけでなく、歯医者の予約や、税金申告や、

 

航空券や、社用車の手配ですら自分でやっている、

 

なんだか、ここ一年で、

 

自分ひとりでできることが大幅に増えた気がする。

 

おっさん、成長しましたっ!

 

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↑ 今年もドリアン祭りが来たよ!

 

心の中(決断の主体)へ戻って赦しをしてゆく際には、

 

起きている基となっている原因を直視してゆくわけだが、

 

僕の場合、幻想の〝罪悪感〟を見て光に晒したあとは、

 

赦した内容をさっさと忘れてしまうことにしている。

 

そうすることで、罪悪感など存在せず、世界は無である、

 

の中を生きていることになる。

 

 

どういうことかと言うと、

 

例えば、仲間内で、自分だけ、微妙に無視されていたり、

 

いつも損な役回りばかり押し付けられたり、

 

あからさまに不当な扱いを受けているとする。

 

そんなとき、心(決断の主体)に戻って、

 

自動的に湧き出してくる毒素のような罪悪感を凝視し、

 

〝これ、起こってないよ〟という聖霊の声を聴いたなら、

 

あとは、その事には一秒たりとも意識を向けないこと、

 

たとえ、兄弟が自分の目の前で、

 

どんなパフォーマンスを繰り広げていたとしても、

 

いったん心に戻り、間違った想いを聖霊へ捧げたなら、

 

その兄弟がやっていることには一切関知しない。

 

勝手にやってろ、くらいな感じで放っておくのだ。

 

それが、実践ベースでの世界を実在させない、または、

 

自我を断固拒否する、ことだと思うからだ。

 

 

ただ、ここで大事になってくるのは、

 

〝先に赦す〟ということだ。

 

世界は無い、こんな兄弟は存在すらしていない、

 

だけが先行してしまうと、せっかく出てきた罪悪感を、

 

今度は逆に抑圧してしまうことになる。

 

そうやって、抑圧されたものが再度世界に投影され、

 

それを見てまた「兄弟なんていないんだぁ」とやる。

 

 

というわけで、これからは、

 

世界を無視でもなく、誰かを否定するのでもなく、

 

無いものは無い、と、真に放置しておけるよう、

 

心を訓練することが、重要な鍵となってくる。

 

 

なので、一旦、即行聖霊のいる場所まで戻り、

 

本当の原因を直視したら、あとはもう、

 

相手が何をしていようと、

 

「ああ、はいはい。わかった、わかった。」

 

でいい。

 

 

 

謎の香港あるある

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↑ これが今の僕の心の中

 

日曜日は人が多いので滅多に外出しないのだが、

 

ベッドのシーツが古くなって擦り切れてきているので、

 

新しいのを購入しておいてくれ、とチョイ姐に言われ、

 

コーズウェイベイにある 香港そごう にやって来た。

 

案の定、店内は大陸からの爆買客でごった返していた。

 

ちょっと失礼な表現かもしれないが、

 

イナゴの大集団が、突如、稲田に押し寄せ、

 

稲穂を全て食い漁って去って行く感じ…。

 

 

それから、最近、とみによく見かけるようになったのが、

 

お父さんと高校生くらいの息子が手を繋いで歩く光景だ。

 

父親と息子が、腰に手を回して歩いているのもよく見る。

 

最初はゲイのカップルかと勘違いしたりしていたが、

 

不思議なことに、息子と母親、娘と父親、娘と母親、

 

〝イチャついている〟場面は見かけない。

 

なぜか必ず、父と息子、なのだ。

 

ほんと、奇妙な〝香港あるある〟である。

 

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↑ 今日はこんな恋人つなぎの親子を3組見かけた。 

   これもむき出しになった僕の心の中だ。ひっ!

 

シーツを買った後、自主トレをしにジムへ向かった。

 

トレーナーが格闘技の試合で日本へ帰国しているので、

 

その間トレができなくなる、ということで、

 

自主トレで事前に指示されたメニューをこなすためだ。

 

トレッドミルで30分走り、ダンベルプレスをした後、

 

120キロのバーベルを担ぎ、スクワットをした。

 

 

こうして、聖霊兄貴を常に思い出しながら、

 

普通に日常生活を送り、その中で湧き起こってくる、

 

様々な想いをみつめてゆく。

 

 

一体何のために、こんな赦しをしているのか、

 

と、ふと思ったりする。

 

それはきっと、

 

この世界とは全く関係のない〝歓び(悦)〟のためだ。

 

 

大好きな人と愛し合う歓び、成功のエクスタシー、

 

大切な人や物や環境に囲まれて過ごす幸せ、または、

 

あらゆる刺激的な体験からくる快楽、そして、

 

美味しいものを食べたり楽しい至福のひと時を過ごす、

 

といった、五感からくる歓びとは完全に無関係な悦び。

 

その天国(ハート)の悦びは、不変であり、永遠である。

 

 

ただ、誤解を避けるために言っておくならば、

 

その神の歓びを得るために赦しを実践するのではない。

 

何かを得ようとするのは肉体の自分であり自我である。

 

神の歓びは、肉体の自分(自己概念B)には属さない。

 

要するに、

 

自分の本質は神の子のエクスタシーそのものであり、

 

それはもう、初めからここに在ったことを智るために、

 

世界を赦してゆくのだ。

 

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僕は、このブログでも、今日はこんなことした、と、

 

日常的な出来事についてあれこれ書いたりするが、

 

まあ中には、日常を語ったり、世間話をすることで、

 

幻想の世界を実存させていることになる、

 

と教える教師もいるが、僕の場合、

 

このブログは、実践の記録として書いているので、

 

気づいた後の美しい言葉だけを綴っていると、

 

そのとき、その時代に、自分はどんな状況にいて、

 

何を考えていたのかがわからなくなるので、

 

できるだけ、その当時、自分がしていたことを、

 

具体的に書くようにしている。

 

また、日常は、

 

自分が心の中で何をしているかを見せてくれる

 

大切な投影の場でもある。

 

だから、僕の場合、日常を語らないと、

 

日常の中に隠された、実相に戻りたくない思い、

 

〝神から離れた劇場〟の一つ一つをどうやって赦したか、

 

が、後々わからなくなってしまうのだ。

 

 

ということで、ジムを終え、家に着いた時には、

 

人酔いで、めまいを起こしたボクであった。

消えてゆく姿

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今日は土曜日。

 

家から一歩も出ず、リビングでウダウダと過ごしている。

 

裏の森ではアブラゼミが鳴き、黒アゲハが舞い始めた。

 

そう。今年も香港の暑い暑い夏がやってきたのだ。

 

 

そして、去年の今頃は何をしていたのかなあ、と、

 

一年前のブログを読み返してみると、

 

日大アメフト部悪質タックル問題について書いている。

 

こうして振り返れば、どんな出来事もただの記憶であり、

 

本当にそれを体験したのかどうかもあやふやである。

 

そういう意味で、僕たちは、ただ、

 

消えてゆく姿の中を生きているのかもしれない。

 

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冷房をガンガンに効かせ、餃子の昼食を取った後、

 

コーヒーを飲みながら、フォーラムの復習をした。

 

 

1.所有するためには、全ての者に全てを与えなさい。

 

2.平安を持つためには、平安を学べるように、

 

  平安を教えなさい。

 

3.神と神の国をまもるためだけに警戒していなさい。

 

 

これら聖霊のレッスンの意味することが、

 

ようやく腑に落ちて理解できてきた今日この頃である。

 

 

何のサポートも無いままに奇跡講座のこの部分を読むと

 

「全ての者に全てを与えるなんて不可能だよ。」

 

「平安を教えるとは先生みたいに講義をする事なのか。」

 

「神の国は僕たちが護らなければ破壊されてしまうの?」

 

となるのだが、ちゃんとした教師から学ぶと、

 

それは心の中で差を見ない状態を意味しており、

 

教えるとは、ただ平安を差出している状態であり、

 

心の中の平安の部分を護るために警戒するのだ、

 

という意味がキチンと理解できてくる。

 

そして何より、

 

このレッスンを理解する鍵となるのが〝神の平安〟だ。

 

 

どんな時でも、どんな人に対しても、

 

先に平安を与えることで、神の平安を受け取ることができ

                               

平安を受け取る際に出てくる罪悪感に気づき、

 

見つめることで警戒する。

 

 

もう少し分かり易く言うと、どんな状況に於いても、

 

自分が平安で在ることを示すことによって、

 

平安を与え、平安を受け取る。

 

その平安を聖霊から学ぶために、常に心の中へと戻る。

 

そして心の中を直視していることで、

 

自我の没入無意識状態に陥るのを警戒する。

 

それが〝教える〟ということの真の意味である。

 

別に、先生のように、何かを教えることではない。

 

 

そんなこんなで、蝉の鳴き声を聞きながら、

 

フォーラムの文章を読んでいるうち、

 

眠りに落ちてしまったボクである。