香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

靈(スピリッツ)

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幻想の世界を実在させてから赦す、ことに警戒している。

 

例えば、

 

運転をしていて、割り込んできた前の車を罵った後、

 

そこから湧き出してくる罪悪感を観て赦そうとしたとする。

 

この出来事を一旦実在させてから赦すのではなく、

 

誰も何もしていないからこそ、それを見過ごして、赦す。

 

 

そういう〝起きていないが故の赦し〟の状態とは、

 

どこにいようと、何をしていようと、誰と一緒にいようと、

 

その背後には常に同じ〝聖性〟が流れており、

 

その全一の感じこそが神であり、実存である。

 

 

本当に神だけが実在で、それ以外実在しないのなら、

 

コップも、テーブルも、田中さんも、全て神の筈である。

 

スマホも、料理も、同僚も、隣人も、全て愛の筈である。

 

なので神以外の解釈に気づいたら、

 

すぐさま、無意識からくるエゴの勝手な呟きを遮断し、

 

それは間違っていると取り下げた後、

 

神だけが実存することを思い出してゆく。

 

そうすることで、

 

コップに幽閉してしまった神を解放することができる。

 

コップが神だった、あ、これもあれも神だった、

 

えっ、神しかない?ああ、全一でしかない、

 

コップも、田中さんも、あの嫌な出来事も無いじゃん、

 

となる。

 

 

自分は、神と同じ愛と歓びそのものであり、

 

実存する靈(スピリット)だと知ることが真の理解である。

 

 

とまあ、こんな感じで、

 

ガンバってる感満載で書いてはいるが、

 

要するに、

 

不快感さえも〝神の歓び〟だったという話である。

 

ある日、実践をしていて、

 

嫌な出来事が起こり、不快感でみぞおちの辺りが、

 

びゅんびゅん波打つ感じと、

 

嬉しいことが起こり、歓びでみぞおちの辺りが、

 

ワクワクきゅんきゅんしている感じが、

 

まったく同じであることに気づいた。

 

解釈が違うだけで、感覚の質自体は同じなのだ。

 

 

なので、間違った解釈自体を取り下げるだけで、

 

罪悪感と思えていたものが、実はそれも、

 

天国の歓びの想念だったということが思い出されてくる。

 

だって、神しか実存しないのなら、無いもの(罪悪感)は

 

取り消されるしかない。

 

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それでもまあ、赦しを実践し始めた初期の段階では、

 

「この状況を赦せば、来世でこれをやらなくて済む!」

 

くらいの軽い気持ちでいていいと思う。

 

目の前の相手が次の自分と思えば、

 

赦そうという意欲が湧くし、僕も、元コンババ部長を、

 

最初は、前世の自分と見て赦していたが、

 

それでも、心が癒されるに従い、最終的には、

 

彼は神だった、実存は神のみで、彼すらも無だった、

 

へと至った。

 

 

ただ、肉体と見て赦すのではなく、靈と見て赦す。

 

 

本当にいるのは神だけで、私や誰々さんではない。

 

神しか実在していない。離れたことがない。

 

自分と神の間に区別はない。まったく神と一緒だ。

 

私は星谷という身体です、というのは成立していない。

 

神はそこにいて、自分はそこから一度も出たことがない。

 

それは、コップではなく、田中さんでもない。

 

霊だ!

 

幸せから学ぶ

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ごくごく稀に、ではあるが…、

 

赦すべき葛藤がない、という学習者の方がいる。

 

 

例えば、

 

数年前に、東京でお会いした、ある主婦の方は、

 

大好きな絵本の仕事をマイペースでやり、旦那は優しく、

 

経済的にも恵まれ、子供はわんぱくで可愛い。

 

それに、両親が子育てを全力でサポートしてくれるし、

 

何でも話せる、気の合うスピ仲間も何人かいて、

 

毎日が、感謝と共に、楽しくにぎやかに過ぎてゆく。

 

時には、はあ?というようなことが起こったりもするが、

 

それこそ、こういう問題にはワークブックのここ、とか、

 

それでもダメなときは、あの先生、というふうに、

 

きちっきちっと、ガイドラインに沿ってクリアにされてゆく。

 

 

彼女と話していて、

 

最初はただ本心を隠蔽しているだけなのか、はたまた、

 

完全に〝お花畑〟の人なのか、と思ったりしたが、

 

話をしていても、そのような感じは全くない。

 

普通に幸せに満ちた人生を送っておられる様子だ。

 

 

まあ、本人の心の中が実際どうなっているかは、

 

本人にしか分らないので何とも言えないのだが、

 

「赦す事柄もないのに、何でコースなんだろう??」

 

と、当時〝死ねばいいのに〟真っ最中であった僕は、

 

つくづく不思議に、かつ、羨ましく思ったものであった。

 

だって、自分にとって、

 

こんなに居心地のよい世界なのであれば、

 

わざわざ脱出する必要なんかないじゃん、って…。

 

 

でも、神の愛が入っている今なら解かるのだ。

 

神が在る感覚は出来事や状況とは一切関係がない。

 

たとえ、赦すべき葛藤がなくても、

 

そこに神がいなければ欠乏感しかないし、

 

逆に、いま、どんなに不幸な状況に陥っていたとしても、

 

神を観じていれば、そこには真の平安が満ちている。

 

 

それに、彼女は、

 

たまたま今回の生で恵まれたタイムラインにいるだけで、

 

次は、寺内貫太郎一家の長女に生まれ(風吹ジュン)、

 

藤竜也と駆け落ちする人生かも知れない。(←昭和や!)

 

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なので今回、

 

たまたま恵まれた状況にいる人の赦し、というのは、

 

その幸せな日常の中で感じる感謝や歓びの気持ちが、

 

素敵な夫や、かわいい子供や、楽しいイベントといった、

 

〝見えているもの〟から来ているのではなく、

 

それらの奥に流れている〝神の想い〟から来ている

 

ことに気づくこと、これが幸せな赦し、となる。

 

 

別の言い方をすれば、ある人や出来事から、

 

大好き、ありがとう、優しい、感動、ラッキー、安らぐぅ-、

 

といった感覚を覚えた時、それは神だ、と気づく。

 

これこそが、幸せな赦しなんだと気づくということである。

 

そうなのだ。幸せ真っ最中な人にも、赦しはあるのだ。

 

それは、幸せの感覚は神の歓びだと気づくことであり、

 

そこから、神の理解へと入ってゆくことだ。

 

 

そして、思う。

 

僕もここまで様々な赦しを実践して来て、

 

ようやく、神の反映として兄弟を観れるようにり、

 

世界が劇的に優しくなった。

 

まあ、そうでない時もあるが、それでも、世界はない、

 

ということを思い出せばとても安らかな気持ちになれるし

 

やっぱり、兄弟は聖なる存在だった、と解かる。

 

もしこれが、初めから〝いい感じ〟のみの関係だったら、

 

全く神に気づけなかったと思うのだ。

 

そういう意味で、僕の夢の中で、ある時は優しく、

 

ある時は強烈なパフォーマンスを見せてくれる

 

兄弟たちは、毎分毎秒、

 

僕に救済のチャンスを差出してくれていると言えるし、

 

赦すべき何かが現れるからこそ、

 

神は在る、を認識できる、とも言える。

 

 

実践第一主義

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⇑ 杭州の税務署。いまはお昼休み

 

今日の香港も、抗議活動の過激化により、

 

交通機関がマヒしているため、自宅待機となった。

 

が、僕は業者に仕入代金を支払わねばならないので、

 

なんとか、会社で支払い処理を済ませたかった。

 

うちの業者さんは皆中小企業で、金額も大きいため、

 

支払いが遅れると、彼らを困らせることになる。

 

 

で、決死の覚悟で出勤することにした。

 

自宅から会社までの距離は、東京で言えば、

 

銀座から川崎といった感じか、もちろん川崎が会社だ。

 

 

まず、海底トンネルが不通なのでバスは使えない。

 

なので、

 

動いている数少ない地下鉄を乗り継いで行くのだが、

 

列車の扉を締めようとすると、抗議活動の人が、

 

扉の間に傘を差し挟み、発車を妨害するので、

 

待てど暮らせど、列車は来ない。

 

やっとの思いでできるだけ会社に近い駅まで来ると、

 

そこから交通手段を探した。

 

(※会社の最寄り駅はすでに閉鎖されている。)

 

すでにバスはなく、タクシー乗り場は長蛇の列だった。

 

 

このとき、

 

〝問題を見過ごすことで、それらを実在させない。〟

 

〝世界は夢で、夢の中以外では存在していない。〟

 

これらを実践するチャンスだ、と、僕は思った。

 

神の実存へ向かうためだけに夢の現実を使うのだ。

 

 

また、自分は何もする必要はないのだ、とも思った。

 

聖霊兄貴になりきって(聖霊兄貴と一緒に、ではない)、

 

ただ、ぼーっ、と、タクシー乗り場に並ぶ。

 

タクシーがやってきては、運転手が行き先を聞いてくる。

 

彼らは、ここからできるだけ遠い、国境付近の街である、

 

上水や粉嶺へ向かう乗客を見つけようとしている。

 

値段を聞けば上水まで600香港ドル(約9千円)という。

 

通常の6倍の値段だ。しかし、客側も負けてはいない。

 

自分達で同じ上水へ向かう客を4人集め、

 

一台のタクシーに乗り込む。

 

これだと一人150香港ドルで済むからだ。

 

 

そんな感じで委ねながらタクシーを待っていると、

 

「火炭(フォータン)!火炭へ行くやつはいないか?」

 

みれば、一台のタクシーの隣で、半パンのおっちゃんが

 

僕の会社がある場所を叫んでいる。

 

おお、神が叫んでいる!

 

僕は一目散におっちゃんと共にタクシーに飛び乗った。

 

結局、集まった乗客4人で料金をシェアし、

 

一人1000円で会社まで辿り着いた。

 

 

会社に着くと、すでに11時を過ぎていた。

 

そこから、ネットで全ての支払いをセッティングし、

 

会議の資料を作り、昼飯も食わずに何やかやして、

 

午後3時くらいに会社を出た。

 

帰りは、なぜかたまたま運よくタクシーが捕まり、

 

自宅まで行ってくれるというので、ラクに帰れた。

 

 

まあ、ジャングルの密林の中にいるわけではないので、

 

交通がマヒしていようが何とかなる。

 

ただそれを実在させず、置き去りにする事だけに徹する。

 

妄想劇場が始まれば〝シャットダウン、エゴ!〟と、

 

心の中で一喝し(僕の場合は実際に大声で叫んでいる)

 

妄想が途切れたところで、

 

私が今思っていることは間違っている、

 

と冷静に宣言し、そこから神を想い出してゆく。

 

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⇑ 最近は中国の税務官の態度もずいぶんよくなった。 

 

個人的には、

 

こうやってどんどん社会や兄弟と、相まみえた方が、

 

自分が無意識に信じているものを見せられることで、

 

一人で部屋に籠っているより、

 

取り消しは大幅に加速する、と確信している。

 

やはり、最後は、実践ありき、なのだ。

  

  

コースだけをやっていたい、という人がいる。

 

コースだけをやるというその意味は、

 

コースだけを、夢に現れる兄弟たちに当て嵌め、

 

赦しの実践をしてゆく、ということであり、

 

1日中〝研究〟だけをして過ごすことではない。

 

逆に、実生活の中で赦しの実践をしている人こそ、

 

真にコースだけをやっている、とも言える。

 

 

そういう意味で、僕はスワットなのだな、と思う。

 

コースの理論や内容は、

 

それを正しく理解している誰かから学び、

 

自分は、その理論を、ただ実践してゆく。

 

その中でひとつ肝に銘じているのは、

 

間違った理論で実践しても意味がないということだ。

 

だから、ちゃんとした教師から正しい理論を学び、

 

実践してゆく。

 

そうすると、あとは兄貴が導いてくれる。

 

 

というわけで、多分、明日も自宅待機、

 

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