香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

夢を見ている者

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⇑ 杭州では上海蟹を食べた。

 

 

今日は、

 

抗議活動と警察による排除行為が過激化したため、

 

香港中の地下鉄やバスや列車が運休となり、

 

僕も家で自宅待機となった。

 

しかし、家にいるからと言って、

 

ソファに寝転がり、せんべいをかじりながら、

 

テレビを見ているわけにはいかない。

 

書斎に籠り、杭州出張で溜まった仕事をやっつける。

 

夕方買い出しに出れば、店は軒並みシャッターを下ろし、

 

スーパーも6時で閉店となり、結局、家でご飯を炊き、

 

缶詰のチャーシューと漬物で夕食を済ませた。

 

いまも、救急車やパトカーのサイレンの音がしているが、

 

明日は、何としてでも会社へ行きたい。

 

帳票類の原本が会社にあるため、

 

やはり、家のパソコンだけでは限界がある。

 

 

こうやって、

 

神だけがリアルであり、それ以外は全て存在しない、

 

を生きながらも、日常の普通のことは普通にこなす。

 

その中で起きることを神へと向かうツールとしながら、

 

神だけをリアルにしてゆく。

 

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杭州から戻った夜、クラウド録画で即位パレードを見た。

 

その後、美智子上皇后の生い立ちドラマも続けて見た。

 

実際の映像と、ドラマを交えた伝記的物語だったが、

 

このドラマを見て感嘆したのは、

 

元華族の女官たちに囲まれた壮絶な宮中生活の中で、

 

上皇后さまは絶対にどんな人をも咎めず裁かず、

 

誰に対しても愛情と優しさを以って接しておられた、

 

という事実だった。

 

中傷の中にあっても、常に他者を愛の存在として観る。

 

まさにこれって、赦しの実践そのものだと思う。

 

 

こういうドラマは、

 

得てして、嘘っぽい美談に終始するものだが、

 

それでも、今世は日本国民である僕たちは、

 

美智子さまが被災地などを視察される際に見せる、

 

優しい眼差しや丁寧な言動を知っているだけに、

 

このドラマには、大きな説得力があった。

 

なので、

 

僕も今後は、兄弟に愛と優しさで接しようと決めた。

 

(※ 決めただけ…。)

 

 

要するに、心の中に神を見出しているか否か、なのだ。

 

自分の中の神を通して他者を見ていれば、

 

「なんじゃ、こっらぁーっ。おんどりゃ、こんどりゃ。」

 

も、

 

「大好きだぜーっ、こっらぁー。」と聞こえてしまう。

 

(※ホンマかっ!)

 

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⇑ 杭州名物のブタの角煮。

   饅頭(まんじゅう)に挟んで食べる。

 

閑話休題。

 

最近、僕の心の中で、神への妥協が消滅しつつある。

 

神だけが実在であり、それ以外は存在しない、を、

 

如何なる妥協もなく、徹底して選択し始めている。

 

 

コースは心の中だけを扱うもので、

 

外の世界で、セックスしたり、やりがいを追及したり、

 

美食を楽しんだりすることは決して悪いことではない、

 

という名目のもと、それを言い訳にして、

 

無意識のうちにコースを現実の生活に当て嵌め、

 

聖霊にお任せ、といいながらも意識の底ではどこか、

 

個人的な厄介事が解決されるよう、

 

聖霊からの〝計らい〟を期待している。

 

 

しかし、もうこれからは、

 

神の世界だけが真実で、それ以外は真実ではない、

 

神の中だけにいたい、と、心底心底心底、思うのだ。

 

 

幻想を幻想として扱う、夢を夢として扱う、とは、

 

夢の中にいる夢そのものとしての自分でははく、

 

夢を見ている者で在る、ということである。

 

その先に、神だけが在り、

 

神以外は実存ではない世界が拡がっている。

 

 

本当に世界が無い、を生きる、とは、

 

自分がすでに神の王国にいたという自覚であり

 

一度も神から離れたことがなかったという気づきである。

 

 

というわけで、ようやく、肉体の自分を放棄する覚悟が

 

調いつつある今日この頃である。

憎しみの輪廻

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ずっと以前の記事で、

 

僕たちは、自分が今世で憎んでいる者に転生する、

 

というようなことを書いたが、本当にそうだな、

 

としみじみ実感している今日この頃である。

 

 

先日の〝元コンババ部長ミス多いね騒動〟しかり、

 

いま、自分が彼からされていることを、前世で、または、

 

今世のだれか他の兄弟に、自分はしていたのだと思う。

 

ここで僕が赦さずに反応し、ドンドンバチバチやってたら、

 

きっと来世では、

 

僕が彼になって、ミス多いね、とやっているのだろう。

 

なので、彼を赦すことは、前世の僕を赦すことになるし、

 

今生で出会う全ての人は、前世の僕であり、

 

今世で赦さなければ、来世でやることになる僕となる。

 

そういう意味で、

 

僕は他者を赦しているようで、本当は自分を赦している。

 

 

そして、実存しているのは神だけで、それ以外は全て、

 

幻想であり、実存ではない、と知ることで、

 

前世で起きた事や来世で起きるであろう事が削除され、

 

夢見の輪廻を終えてゆくことができるのだ。

 

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夢見の輪廻と言えば、僕の夢の中の香港ではいま、

 

憎しみの輪廻が、真っ赤に燃えさかっている。

 

興味半分でデモを見に行くような段階は終わっていて、

 

街中での催涙弾発射や銃撃が日常になってきている。

 

北京で、月蛾(がつが)が、国家主席と会談して以降、

 

警察の排除行為が一層激しさを増した。

 

今日は、香港の丸の内、セントラル地区でも、

 

多くのサラリーマンやOLが、昼休みを利用して、

 

警官隊による市民への発砲に抗議するデモを行ない、

 

結果、機動隊による催涙弾攻めに遭っていた。

 

デモの掛け声も、

 

「香港人頑張れ!」から、「香港人は復讐する!」

 

に変わった。

 

 

こういう国家的な憎しみの輪廻を見ながら、

 

自分で自分に行なっている、自分の心の中を赦す。

 

それは、神だけが実在で、それ以外は実在せず、

 

よって、世界は存在しない、という角度の赦しだ。

 

 

実存しないものに真実を与えるようなことをしない。

 

見えていることに注目して、それを実存させない。

 

神の中から見れば、世界は本当に無い。

 

そのことを思い出すためだけに、この映像を使ってゆく。

 

だから、

 

怒りたければ〝怒らせて〟やればいいし、

 

発砲したければそう〝させて〟やればいい。

 

 

ただし、現実世界では〝普通に〟行動する。

 

ニュースなどを見て、今の状況をちゃんと把握し、

 

催涙弾を撃たれたら逃げ、身の安全を確保するのだ。

 

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というわけで、さっき、中国の杭州から戻ってきた。

 

今回は信頼できる大好きな陳弁護士が一緒だった。

 

源泉徴収税について仕入先と協議する場だったのだが、

 

損得、戦略、利害からの駆け引き満載の中、

 

これは自分が見ている夢であり、神以外実在せず、

 

それであれば、そのようにこの映像を観る。

 

夢の登場人物が、したいようにさせてやる。

 

 

で、直感した。

 

幻想の世界でも、もう会社勤めは終わりだな、と…。

 

だって、ここが夢なのであれば、何をしてもいい筈で、

 

それでも、

 

絶対にやりたいわけでもない会社員をしているのは、

 

やはり、これをしないと生きて行けない、つまり、

 

幻想をリアルにしている、ということなのではないかと…。

 

 

眠くなってきたので、

 

このことについては、次回にまわすことにする。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

無言の祈り

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〝もしも神から分離したら〟という考えたことが原因で、

 

幻想の宇宙が作出された、と僕達は思い込んでいるが、

 

宇宙が本当に無なのであれば、、

 

もしも神から離れたら、と考えたこと自体も、

 

自我の作出だった、ということになる。

 

 

そうなのだ。

 

僕たち神の子は、なんと言っても神の子であるが故に、

 

もしも神から分離したら、などという馬鹿げた事など、

 

はなから考えたりなどしなかった。

 

ていうか、考えることすら〝できて〟いなかった。

 

 

「もし神から離れたらどうなるのだろう、などと、

   

    お前はとても罪深いことを考えてしまったのだよ。」

 

 

ノーッ!

 

よく考えればわかるが、神と同じ存在である神の子に、

 

〝もしも…〟などあるはずがない。

 

僕たちはでっち上げられたウソに騙されている。

 

だから、

 

この夢の世界で起こる分離劇場を信じることなどない。

 

 

分離劇場を信じないとはどういうことかというと、

 

全てに〝神の解釈〟だけを見ていること、

 

言い方を変えれば、

 

世界が本当に無いことを〝感じている〟ことである。

 

 

どういうことか、僕の身に起こったことで説明すると、

 

先週の金曜、仕事の事で元コンババ部長と色々あった。

 

というのも、この日は各部署から東京本社へ、

 

10月の財務資料を提出する最終締め日で、

 

この日中に、全社の数字をまとめねばならない彼は、

 

朝からちょっとピリピリモードだった。

 

そして、僕が彼に送った香港支社の財務資料の中で、

 

売掛金が合わず、何度か彼と電話でやり取りをした後、

 

最終的に、いくつかの数字のミスが見つかった。

 

そのとき彼から、

 

「星谷さん、最近ミスが多いですよ。

 

 昨日も旧会社のフォーマットで小口清算してたし…。」

 

と、叱責口調で言われた。

 

 

僕の胸がズキンと鳴り、不快感が拡がる。

 

狭い東京事務所では、彼の声はみんなに筒抜けだ。

 

これまでなら、電話を切った後、

 

彼は神の愛に値する、と、色々やりながら赦すのだが、

 

今回は、胸がズキンと鳴った瞬間、に心が無になり、

 

何の解釈も起きないまま、この夢の状況を見ていた。

 

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彼は神の愛に値する、とか、聖性を見いだす、とか、

 

世界は無い、分離は起こってもいなかった、神は在る、

 

というような、言葉(頭)で解釈した赦しをするのではなく、

 

世界や分離が本当に無かったのであれば、

 

なんの言葉も差し挟まず、無いものを無いものとして、

 

ただ世界をそのように〝見過ごして〟いるだけでよい、

 

と、このとき、頭ではなく、心で悟ったのだ。

 

 

何だコイツ、次はこう言い返してやろう、恥をかかされた、

 

といった感情や妄想劇場が浮かんでは来るけれど、

 

また、神からの分離は起こってなかった、神を想い出す、

 

といった〝赦しの解釈〟なんかもやってはくるが、

 

それらの反応や解釈を、ただ置き去りにし(←ここ重要)、

 

起こるがままを、去るがままにしていればよい。

 

それが、沈黙であり、解釈を取り下げるということであり、

 

頭ではなく、心からの理解で考える、ということである。

 

赦しは何もしないし、言葉を必要としない。

 

本当の祈りは無言で行われるからだ。

 

 

しかし、解釈をただ見過ごす、という沈黙の状態を、

 

長時間続ける必要はない。

 

ていうか、そんなの不可能である。

 

瞬間、そうでありさえすれば、聖霊には十分である。

 

その一瞬の沈黙から、ハートの声を聞き、神へと入る。

 

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また、誤解を避けるために述べるならば、

 

この、出てくる解釈をただ置き去りにする、というのは

 

よく、非二元で言われるような、

 

ただストーリーが起こっては消えて行ってるだけ、とか、

 

あるがままを、あるがままに受け入れて見る、とか、

 

何かをしている誰かなんて存在しないんです、

 

ということだけではない。

 

そこで立ち止まるのではなく、一瞬の沈黙は、

 

神の声(ハート)を聞くための前段階であるということだ。

 

そこから、全部が神だった、という、

 

たったひとつの解釈へとたどり着くことができる。

 

 

僕は、この〝無言の赦し〟こそ、

 

認識して手放す、というワプニック氏の赦しのステップを、

 

実際に実践していることになる、と理解している。

 

なぜなら、

 

赦しの言葉をも含む、言葉での解釈を取り下げ、

 

無いものを無いとして、ただ世界を観る(感じる)ことが、

 

すでに、認識して手放している状態であるからだ。

 

 

肉体では、不快感が来ているように思っているけれども、

 

本当は神(歓び)が来ている。

 

肉体の自分はいつも、

 

この、元とコンババ部長叱責ドッキンのように、

 

自分が作り出した考え(解釈)に怯えている。

 

しかし、肉体は自分ではなく、それはトリックで、

 

本当の自己は見えている景色の向こうにいる。

 

それを、元コンババ部長で見えないようにしている。

 

 

自我が無いのであれば、無いように扱う。

 

それが、今回の不快感から学んだことである。