↑ドラえもん大好き。ドラえもんは中国語で『多啦A夢』。のび太は『大雄』という。
平日は、眼前の間違った知覚を、正しい知覚に修正してもらうことばかりに明け暮れ、
自分の心の動きをちゃんと観察できていなかったりするが、
日曜日はひとり静かに、部屋でぼうっーとしながら、自分の内面にある様々なもの、
例えば、罪悪感や、執着や、ちょっとした憎しみなどを、ないと認識して兄貴にゆだね、
その後に立ち上ってくるハートのひゅんひゅんを感じて過ごせるのでうれしい。
昨日、ジムに行けなかったので、今日は行こうと思っていたら、目覚めたのが昼過ぎだった。
このあと、友人と香港の恐怖映画を見て、それからジムに直行した。
映画は、香港の広東オペラの一座が、40年前に自殺した女優の霊に襲われ、
座長である主人公が悪霊に憑依された人たちに翻弄されるという、
まあ、お盆が近くなるとよく見かける怪談映画だった。
しかし、古びた香港の廟や街道の映像が美しく、露店の人や、街行く人たちが、
どこか異次元の人っぽく撮られていて、別のパラレルに迷い込んだような、
幻想的な雰囲気が立ち込め、結構楽しめた。
その不思議な感覚のままジムへ行き、いつものように瞑想していると、
突然、目の前の景色が丸ごと色あせ、薄くなっていくように見えた。
あれ、気を失うのかな、と一瞬思ったが、意識はしっかりしている。
そうこうしているうちに、風景が分解されるように、粒粒になって行き、
その背後から別の世界、うまく言えないが、光でできた世界のようなものが、
わわーっと立ち顕われてきた。
ああ、この世界が消える。一瞬そう思って怖くなった。
しばらくすると、その光は次第になりを潜め、現実の景色が戻ってきた。
このとき、僕はいま、父からの最後の一歩が起こったときに恐怖しないよう、
少しづつ少しづつ、こういったことに慣れていこうとしているのだな、となぜか思った。
例えば、好きな人がいるとする。でも相手は自分のことを何とも思っていない。
それどころか、ほとんど口も聞いたことがない。
その人から、ある日突然、何の前触れもなしに唐突に〝好きです〟と告白された。
驚きのあまり、いまはちょっと考えられません、とかなんとか答えてしまう。
相手は脈がないと諦め 「そうですか。残念です。」と言って去ってゆく。
それから我に返り「いや違うんです。あまりに気が動転していて。」と言っても後の祭りだ。
ちゃんとそれなりのシチュエーションで、心の準備が整った上で告白してくれれば、
なあんて言っても遅いのだ。
例えば、行きたい国がある。そこで第二の人生を始めたい。
お金もあるし、仕事だっていつでも辞められる。
でも、行くのは明日ではないのだ。それは心の準備ができたいつか、の話だ。
僕は現実でなにかワクワクすることに動いて、思い切りやりたいことを楽しんで、
というのを第一目標には置いていないので、明日、故郷へ戻る日が来ても全然OKだ。
多分、コースをやっている殆んどの人が〝大丈夫です。決めています〟と言うだろう。
だが、それは1時間後ではない。
もし、本当に1時間後に〝それ〟が来たら、子供のことや家のことが脳裏をかすめ、
いま起こっている体験は本当に故郷へ帰る〝それ〟なのか、と疑ったりして、
結局、招待を辞退してしまったりする。
父からの突然の告白に何の迷いもなく〝イエス〟と言えるように、
設定をしっかり解除してもらっていこう。幸せな夢。
そんな事を感じた1日だった。