昨晩、むずむず症候群になった。
眠っているときなどに、手足をじっとさせていると、
虫が這うように神経がむずむずして耐えられなくなる。
寝床から起き上がったり手足を動かすと症状が消える。
なので、絶えず寝返りを打たなくてはならず、
眠りに落ちるとすぐに〝むずむず〟が始まるので、
気持ちよく眠ることができない。
以前、テレビの情報番組でこの症候群のことを見て、
どんなものか知っていたので、
「ああ、あれか。」と思い、布団の中で赦していた。
避けようとせず、このむずむずをじっと観察する。
びゅんびゅんがむずむずに変わっただけだ、と解る。
この不快感に反応して被害者としての自分を作り上げ、
自分を罰しているのだな、と認識する。
決断の主体の位置(背後のちょっと奥のほう)へと、
その不快感を持って行き、次のように唱える。
「自分は今も完璧な実相の世界の住人である。」
「完全な愛そのものの存在であり、無辜である。」
「罪なんか犯しようがないし、分離も罪もない。」
「なので、被害者でいる必要もない。」
そして、むずむずをそのまま聖霊兄貴へ渡し続けた。
むずむずが消えても消えなくてもどちらでもいい。
ただひたすら被害者でいることを放棄し続ける。
決断の主体が、被害者であることを止めない限り、
たとえ、周波数を変えて、このむずむずが治っても、
しばらくすると、別の〝むずむず歯痛バージョン〟
なんかが始まったりする。
そんなことをしているうちに、朝方になり、
いつの間にか眠ってしまった。
決断の主体の位置から明け渡しを始めて以降、
次々と、いろいろな謎が明らかになってゆく。
昨夜〝むずむず〟の明け渡しをしていたとき、
久々にバカン、と気づきのようなものが訪れた。
自分が〝結果〟そのものだった!
毎日、こうして、ブログを書いたり、仕事をしたり、
食べたり、飲んだり、考えたり、おしゃべりしたり、
過去や将来についてあれこれ思考している自分は、
全部、投影の〝結果〟だった。
この自分は何もやってないし、原因にすらなれない。
自分というのは、
選択することで新たな未来を作りだしたり、
努力することで願いをかなえたり、
何かを行なうことで運命を変えられる存在ではなく、
すでに確定している結果の存在に過ぎなかったのだ。
こんなことは、とうの昔に本を読んで知っていた。
しかし、どこかに、投影を見ている自分というものが
存在し、その自分が何かやったり考えたりしている、
いや、そうでありたい、という自我の欲望があった。
「個としての自分なんてないよね」と言いながらも、
外に顕れているのは投影、それを見ているのは〝私〟
と、無意識のうちにやっていた。
〝私〟も投影の結果なのだ。
この世界を見ている自分というものは存在しない。
だって、この自分すらも投影の結果だからだ。
幻想を見ている自分というものなどなく、
自分という幻想が、結果として顕れているに過ぎない。
自分自体が幻想そのものだったのだ。
それは決断の主体も、聖霊兄貴も同じである。
最後にはみんな消える。
だから、毎日息をして、生活しているこの自分が、
悟るなんてありえない。
個の自分は〝むずむず〟を治すこともできないし、
天国へと帰るための何かができるわけでもない。
唯一できることはじっとしていることだけだ。
本当の意味で、この事実を容認すると、
とても救われた気持ちになる。
分かってはいたが、入ってなかった。
ただただ兄貴に大の字状態だよ。
それでも、まだまだ決断の主体は、
イニシアティブを取りたがるだろうけど…。
もうすぐ2016年。
〝私〟が消えて行くことを、少しづつ許してゆく。