香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

ヴィパッサナ―瞑想 (4日目-6日目)



4日目よりヴィパッサナー瞑想の指導が始まった。

戒律により、瞑想の内容については割愛するが、

要するに自分の身体を内観する瞑想法だ。

最初は全身を一回観るのに30分くらいかかって

いたのだが、次第に10分くらいでできるようになった。


ここでもやはり、出てくる、出てくる。

ただ、1-3日目と違うところは、出てくるものが、

過去の出来事からくる、怒り、憎悪、恐怖、といった

より深い部分のものだった、ということだ。

以前、マッサージに行くと、なぜか、ざまざまな過去の

出来事や感情が押し出されてくる、という記事を

書いたことがあるが、細胞一つ一つの隙間から、

様々なカスのような汚れがあぶりだされてくる、

といった感じだ。

↓ ↓ ↓ 過去の記事を参照願います

香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー


説明によると、精神(決断の主体)が何かに反応し、

外界にそれを投影しようとする際、

必ず、身体には何らかの感覚が生まれる。

その感覚を感じ、観察することで、投影が起こる前に、

業を消すことができるというものだ。

要するに、投影が起こる前の元ネタの内に、

肉体の上に顕れてきた罪悪感や恐怖を

完璧な平静心で観察し溶かしてゆくという原理である。


これがなかなかきつい。放っておこうとしても、

次から次へと恐怖や嫌悪がやってくる。

だが、そういった感情は無視して放っておきなさい、

と指導者は言う。

たとえ、上がってきたものが愛や感謝であっても、

ただ流して身体の感覚だけに集中しなさい、と…。


しかし、

簡単に無視できるほど、生易しいものではなく、

次から次へと去来する何やらわからないもので、

僕の頭はぱんぱんになった。


普段なら、それを聖霊に明け渡すのだが、

他のやり方をミックスすることは禁止されている。

6日目の瞑想のとき、もうどうにもならなくなり、

もちろん、ヴィッパサナー瞑想は続けながらも、

僕は戒律を破り、聖霊兄貴に大放出した。

その瞬間、不思議なことが起こった。


僕が生まれてから今までに出会った、主要な人々、

小さい時に一緒に遊んだやすひろくんや順子ちゃん、

小学生の時に仲の良かった常松君、中学の時に

ひょんなことで口をきかなくなった佐藤、というふうに、

年代を追って、今では名前や顔さえも忘れている

人たちが立ち顕れては頭上高く消えてゆくのだ。

その度に僕は「赦します。」と宣言する。

以前の会社で、なぜか僕を天敵のように攻撃してきた

女性社員の山添さん、ホテルで差別された時のこと、

理不尽な扱いをしてきた会社の上司、など、

思い出そうとせずとも浮かび上がってくる。


それがひと段落すると、今度は〝赦しを乞う人〟、

つまり、僕がやってきたさまざまな赦しを乞うべき

事象が次々と浮かび上がってきたのだ。

入院させるほどプレッシャーを与えてしまった

以前の部下や、厳しい言葉で叱責した別の若い部下、

よくしてくれたのに裏切ってしまった昔の恋人など、

1人1人に対して〝ごめんなさい。赦して下さい〟と、

頭を垂れ、赦しを乞うていった。

それとともに、彼らはやはり円柱形の細長い人形

になって天へと消えて行く。


それが終わると、今度は、自分の身体の中から、

これまでに出会った無数の名もないひとたち、

道ですれ違っただけの人、買い物をしたときの店員、

テレビに出てきた人、電車で同じ車両だった人、

要するに人生で見たことのある全部の人たちが、

円柱形にかたどられた筒のようになって、体の中から

ザザーッ、と天に消えてゆくのが見えた。

なんせ、記憶にもない人たちなので、ものすごい数で

僕はただ茫然と見送るしかなかった。


そういうことが起こっている間も、ヴィッパサナーは

続いている。いや、止めたらこの〝赦しの洪水〟も

停まってしまうのはわかっていた。

そして、これが前哨戦となり、7日目から始まる

聖霊兄貴による怒涛の大手術へと繋がってゆくのだ。


怒涛の数日間だったが、疲れてはいなかった。

逆に身体がスッキリと、解放された感じがする。

夜、身体を横たえるが全く眠れない。

3日目からずっと続いていて、別の生徒さんも、

質問の時間に不眠で困っていると相談していた。

先生が言うには、これはとても良いことだそうで、

本当にちゃんと瞑想が行なわれていると、

体が開いている状態となり、一種の興奮状態で、

眠れなくなるのだという。

逆に夜よく眠れる人ほど、浅い瞑想をしている場合が

多いのだ、と指導者の先生は言った。

だが、たとえ一睡もできなかったとしても、

ゆっくり目を閉じて身体を横たえていればそれでOK、

ということで、安心した。


見れば、短パンにアロハシャツで頑張っていた

ベッカムが足を引きずっている。そう言えば、

瞑想の時間も、椅子を用意してもらっていた。

あとで訊けば、階段から落ち、捻挫したのだという。

その辺りからベッカムは朝の瞑想をさぼるようになり、

バングラおじさんにいたってはもう、

完全にやる気ゼロになっていた。

瞑想中も毛布の模様を指でなぞっていたり、

すね毛を抜いたりしていた。


やはり、こういう瞑想法は、

今回で輪廻を終わらせる、とか、悟りたい、とか、

自分を深く知りたい、などの確固とした目的意識

を持って望まなければ何の意味もないものなのだな、

とわかる。

様々なスピ講演会やワークショップを渡り歩くノリで、

参加したら、ただの時間の無駄になってしまう。

受け身で参加して何かを得られる、

という類のものではないからだ。


逆に言えば、

実践をちゃんとやってる人には必要ないとも言える。

日常で実践をする方がずっとパワフルだと思うからだ。

それから、この期間に学んだことは、

〝赦す〟と同時に〝赦しを乞う〟ことの重要性だ。

僕たちは、案外〝されたこと〟を赦すことに

目が行きがちだが〝したことに赦しを乞う〟ことも

(本当は誰も何もしていないのだが…)

非常に大きな明け渡しだと思うのだ。

それは、エゴに対してしたこと、に対しても同じだ。


というわけで、6日目までが終わった。

そしてとうとう、明日からの聖霊と繋がる7日目

へと突入する。

ここで、僕は、今後の人生を、

聖霊の操作下に置かれることになるのだった。