↑ 建設業に携わろう、という政府のポスター。
いま、建設現場の人手不足が深刻化している。
先日、香港人の友人数人とカフェで話していた時、
その場にはいない、ある人物のうわさ話となった。
その人(男性/40代/独身/香港人)は、
ちょっとお金にルーズなことで知られていて、
「この前さ、また金銭トラブルがあったんだよね。」
「ええっ、マジで?」
「そう言えば、昔、あんなこともあったよね。」
「あった、あった。オレなんて、あいつのおかげで…。」
「へえ。まだそんなことやってんのかよ。」
みたいな会話が延々続く。
しかし、その噂の種にされている人物は、
僕が失業して困っていたリーマンショック時代、
親身になって職探しに奔走してくれた人で、
僕にとっては命の恩人といっても過言ではない人だ。
なので、彼のダメ出し大会のような会話の中、まるで、
自分のことを言われているようで、たまらなかった。
それでも、表面上は、ニヤニヤしながら、
相槌を打っている偽善者の自分にも苦しくなっていた。
そのとき、わかった。
眼前で数人の友人たちが話している会話は、
本当は、僕がそう思っているのだ、と…。
「自分は彼のことをそんなふうには思っていません。
彼は僕の恩人であり、大好きで大切な人です。」
と、彼を悪く言っている友人たちを批判したくなるが、
おっとどっこい、
心の中でやっている仕組みをようく見て行くと、
これは全て、
自分の本心を彼らに言わせていたに過ぎない。
私は彼をお金にルーズなダメ人間と思った→
罪悪感→
私はそんなひどい事を考えるような人間じゃない→
否定→
そうだ、これを他人が思ったことにしてしまおう→
投影→
あの人たちがあんなひどいことを言っている→
私の大切な恩人を悪く言うなんて許せない→
私は善
とまあ、これ以上でも、これ以下でもないことを、
人生全てのシーンにおいてやっている。
それも、自分ではこの矛盾に全く気付いていない。
彼を批判する友人たちの姿を見て、
なんでもっと、愛で彼を見ないのだろう、と考えていたが、
何のことはない、愛で観ていないのは自分であった。
しかし、そうは言っても、
〝投影される前の記憶は消え去る〟という法則ゆえに、
他者の放つ言葉こそ、自分が隠蔽している本心だ、
とは、なかなか思えないものだ。
だから、
誰かに自分の好きな人を批判され耐えられなくなったら、
それは自分が他者へと投げ捨てた想いであり、
本当は自分がそう思っていた、と気づくチャンスである。
↑ かなりイケイケな建設省のポスターだが、
日本ではセクハラになるのか?
よく、自分のことなら何を言われても構わないが、
私の好きなあの人の悪口を言われるのは耐えられない、
と言う人がいるが、それも、ようくようく観てゆくと、
その中には、巧妙に隠蔽された〝偽善〟がある。
自分の罪悪感を押し付けた他人に、
大好きなあの人のことを批判させ、
それに牙をむいて立ち向かう、という偽善だ。
また、自分の事をストレートに批判されるくらいなら、
大切な人の事を批判されて、それに怒っている方が、
まだ、自分のプライドが保てる、と思っていたりする。
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要するに、この虚像世界は全て、
自分が押し付けた運子ちゃんの投影の世界であり、
そこで他者が語っていることは、
ひとつ残らず、自分の本心である。
ただ、自分の本心を他人に押しつけ、それを見て、
あいつはけしからん、とやっているに過ぎない。
だから、他人の発言を自分の本心だと認識し、
それを赦してゆくことは、故郷へ還る観点から言えば、
最も手っ取り早く、最短な方法だと言える。
しかし、それはまた、他人のせいにできない分、
かなり苦しく、ある意味、地獄経由の赦しとなる。
だが、赦しがある段階まで進むと、必ず、
この、運子ちゃんを真正面から見つめる、という、
まさに地獄経由の領域を通り過ぎることとなる。
そういうときこそ、
一緒に赦しを実践している兄弟たちが助けになる。
でも、大丈夫。
地獄だと思っていたものは、本当は天国で、
自分はすでに天国にいるのだから。