香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

聖なる感動を奪うもの

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↑ 毎朝二階建てバスの最前列に座って通勤している。 

 

去年の秋くらいだったか、ある学習者の方が、

 

ご自身が体験した、ある神秘体験をシェアされた。

 

それはもう、世にも不思議なすごい体験で、

 

僕たちはへえーという感じで、聞き入っていた。

 

しかし、その学習者の方がおっしゃるには、

 

この体験は人にあまり話したくなかったらしい。

 

なぜなら、もし、この話を聞いた人が、

 

いつか自分と同じ体験をしたとき、

 

「ああ、これは、あの人が語っていたあの体験ね。」

 

と、瞬間的に思い出させることで、

 

その人の感動を半減させてしまうからだ、というのだ。

 

本当にその通りだな、と思った。

 

 

様々なスピ本を読み、様々なワークショップに参加し、

 

様々なメソッドを学んでスピ的知識が豊富になってくると、

 

無意識にやってしまうのが、スピ知識のカテゴライズだ。

 

 

その人が、独自の聖なる体験をしているにもかかわらず、

 

「ああ、それは誰々さんも体験した、あれですね。」

 

「あの人も同じことを言ってた。」

 

「それは、何とかという本に書いてあった。」

 

「それは、その段階ではよくある体験なんだよね。」

 

などと、どこかのカテゴリーに入れてしまうことで、

 

自分や相手から〝聖なる感動〟を奪ってしまうのだ。

 

 

その奥には無意識の〝すり替え〟が潜んでいる。

 

聖なる感動(ハートの悦)を、

 

よくあること、にすり替え、安心している。

 

ハートに触れることから逃げている。

 

 

その人が体験したことは、その人独自のものであり、

 

どんなカテゴリーにも入れてはいけないものだ。

 

なので僕も最近、多くのコース兄弟と接するようになり、

 

この点については気をつけねばと思った次第である。

 

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話は変わって、数年前までの僕は、

 

赦しが進んだマスターと言われるような人たちは、

 

なぜパレスチナや北朝鮮などの赦しの最前線に赴き、

 

そこで赦しの実践を行なわないのだろう、と思っていた。

 

 

赦しの達人と呼ばれるようなバリバリの教師が、いま、

 

最も天国から遠いように見える場所で赦しを行なえば、

 

そこはきっと天国に変わるに違いない、と…。

 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

でも、最近、思うのだ。

 

平和な日本で、肉親やパートナーから言われた、

 

自分を修羅に変えるような一言を赦すのは、

 

戦争地帯で殺し合っている人々を赦すより難しいと…。

 

 

なぜなら、後者の環境に身を置いてみると、

 

もう一目で、こりゃだめだ、狂気だ、こんなの間違ってる、

 

と理解できるし、その戦争に自分は関与していないので、

 

もうこんな世界要らない、と即行で手放せたりする。

 

しかし、自分を名指しでガンガン断罪してくる相手を、

 

無罪と観るのはなかなか難しい。

 

 

だがしかし、 

 

そういった、僕たちのイラッ、ムカッ、といった感情が、

 

地球の内部に集結し、それが、ある日、ある地点で、

 

一気にバーンと噴火する。それが戦争だと思うのだ。

 

 

要するに、

 

戦争をしているその地の人たちに問題があるのではなく

 

問題は、僕たちの日常の小さな憎悪にあると言える。

 

なので、

 

戦争のない世界を実現するには、なにはともあれ、

 

各自の中で相手に抱いている〝小さな殺意〟を見つめ、

 

それは自分で選択していた、ということを認識して、

 

手放してゆく事が大切だと思うのである。

 

まあ、そう考えてみれば、戦争地帯に赴くまでもなく、

 

自分がいまいる場所こそが、戦争地帯であり、

 

狂気の最前線だった、と理解できる。

 

要するに、

 

見せ方が違うだけで、この幻想世界はどこへ行っても

 

同じひとつの投影でしかない。

 

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というわけで、

 

決断の主体だけが問題で、全部そこだけで起きている、

 

という、体感レベルでの理解の中にいる。

 

決断の主体に常に留まり続けていると、

 

投影のパターンは至ってシンプルであることが分かる。

 

そんな中、僕の赦しも、さらなる佳境を迎えつつある。

 

次回は、そんな僕の徹底した実践の日常をお伝えする。