↑ 毎朝二階建てバスの最前列に座って通勤している。
去年の秋くらいだったか、ある学習者の方が、
ご自身が体験した、ある神秘体験をシェアされた。
それはもう、世にも不思議なすごい体験で、
僕たちはへえーという感じで、聞き入っていた。
しかし、その学習者の方がおっしゃるには、
この体験は人にあまり話したくなかったらしい。
なぜなら、もし、この話を聞いた人が、
いつか自分と同じ体験をしたとき、
「ああ、これは、あの人が語っていたあの体験ね。」
と、瞬間的に思い出させることで、
その人の感動を半減させてしまうからだ、というのだ。
本当にその通りだな、と思った。
様々なスピ本を読み、様々なワークショップに参加し、
様々なメソッドを学んでスピ的知識が豊富になってくると、
無意識にやってしまうのが、スピ知識のカテゴライズだ。
その人が、独自の聖なる体験をしているにもかかわらず、
「ああ、それは誰々さんも体験した、あれですね。」
「あの人も同じことを言ってた。」
「それは、何とかという本に書いてあった。」
「それは、その段階ではよくある体験なんだよね。」
などと、どこかのカテゴリーに入れてしまうことで、
自分や相手から〝聖なる感動〟を奪ってしまうのだ。
その奥には無意識の〝すり替え〟が潜んでいる。
聖なる感動(ハートの悦)を、
よくあること、にすり替え、安心している。
ハートに触れることから逃げている。
その人が体験したことは、その人独自のものであり、
どんなカテゴリーにも入れてはいけないものだ。
なので僕も最近、多くのコース兄弟と接するようになり、
この点については気をつけねばと思った次第である。
話は変わって、数年前までの僕は、
赦しが進んだマスターと言われるような人たちは、
なぜパレスチナや北朝鮮などの赦しの最前線に赴き、
そこで赦しの実践を行なわないのだろう、と思っていた。
赦しの達人と呼ばれるようなバリバリの教師が、いま、
最も天国から遠いように見える場所で赦しを行なえば、
そこはきっと天国に変わるに違いない、と…。
でも、最近、思うのだ。
平和な日本で、肉親やパートナーから言われた、
自分を修羅に変えるような一言を赦すのは、
戦争地帯で殺し合っている人々を赦すより難しいと…。
なぜなら、後者の環境に身を置いてみると、
もう一目で、こりゃだめだ、狂気だ、こんなの間違ってる、
と理解できるし、その戦争に自分は関与していないので、
もうこんな世界要らない、と即行で手放せたりする。
しかし、自分を名指しでガンガン断罪してくる相手を、
無罪と観るのはなかなか難しい。
だがしかし、
そういった、僕たちのイラッ、ムカッ、といった感情が、
地球の内部に集結し、それが、ある日、ある地点で、
一気にバーンと噴火する。それが戦争だと思うのだ。
要するに、
戦争をしているその地の人たちに問題があるのではなく
問題は、僕たちの日常の小さな憎悪にあると言える。
なので、
戦争のない世界を実現するには、なにはともあれ、
各自の中で相手に抱いている〝小さな殺意〟を見つめ、
それは自分で選択していた、ということを認識して、
手放してゆく事が大切だと思うのである。
まあ、そう考えてみれば、戦争地帯に赴くまでもなく、
自分がいまいる場所こそが、戦争地帯であり、
狂気の最前線だった、と理解できる。
要するに、
見せ方が違うだけで、この幻想世界はどこへ行っても
同じひとつの投影でしかない。
というわけで、
決断の主体だけが問題で、全部そこだけで起きている、
という、体感レベルでの理解の中にいる。
決断の主体に常に留まり続けていると、
投影のパターンは至ってシンプルであることが分かる。
そんな中、僕の赦しも、さらなる佳境を迎えつつある。
次回は、そんな僕の徹底した実践の日常をお伝えする。