奇跡講座を教えたり、奇跡講座的活動をすることで、
生活の糧を得ている方もたくさんおられると思うが、
僕なんか、もっとすごい。
会社からお金をもらって、奇跡講座をやっている。
しかも、ボーナス、有給休暇付きで…。(←ドヤ顔のボク)
もちろん、仕事だってそれなりに(笑)やってるよ。
でももう、完全に赦しが仕事になってしまっている。
(※ああ、このブログを社長が見ていないことを祈るよ!)
例えば、同僚と打ち合わせをしたり、電話で話をしたり、
メールを読んだり、デスクワークをしたり、
何人かで他の同僚の噂話をしているようなときでも、
ずっと、決断の主体の位置から、聖霊と共に、
分離など起こってなかった、と無実の兄弟達を観ている。
このように、ずっと、
決断の主体の位置に一点集中して過ごしていると、
全部、決断の主体の位置だけで起きている事が解る。
外側では何も起きていないし、故に無意味だ、
と、ありあり実感できる。
↑ 銀行に行ったら獅子舞やってたよ!
で、春節が過ぎ、明確に変わったのは赦しの質である。
これまでは、幻想世界の出来事から浮上する罪悪感を、
その都度、決断の主体まで運び、赦していたが、
いまでは、逆に、決断の主体の位置から、
分離させた自己と他者のやり取りを、
それは起きていない、分離もなかった、と赦している。
これはただの〝罪悪の投影〟という、
一人でやっている〝罪の押し付け合い劇場〟で、
ひとつの間違った心(自己概念A)がやっている。
自己の罪も、他者の罪も、ここから見れば、
ひとつのものだった、ということが明らかになる。
ただ、この感覚は、非二元や悟り系が言うような、
肉体の自分を、もう一人の自分が冷静に観察している、
というのとは完全に違っていて、なんていうか、
決断の主体の中で全部が起きている。
「なあんだ。ここだけじゃん!」といった感覚なのだ。
「相手に罪を投影して自分が正しいと主張したいんだ。
でも実は、ひとつの意識がやっている。
だから、攻撃も自分が自分にしているんだな。
なにより、それを決断したのも自分だった。」
↑ 子犬がダンスしているみたいでとってもかわいい
仕事中も、寸分の隙もなく、この位置にいる。
業務上の問題点、期日までにやるべきこと、など、
日々様々な兄弟たちが僕の眼前に顕れては、
様々なパフォーマンスを見せてくれる。
その中で、決断の主体に留まりながら、
これも〝ここ〟だけで起きていて、
外では何も起きてない。
相手がいるように見えているけれど、
それも、ひとつの意識を分離させて見ている、
ひとり芝居に過ぎないんだ。
そもそも分離などは起きておらず、
故にこれは妄想なんだ、ということが、
明白に見えている場所から聖霊に選び変えてゆく。
でも、最初からそううまくはいかない。
でも、何度も、何度も、何度も、数をこなしていくうち
仕事中でも、決断の主体の中に留まれるようになった。
昔は、仕事中に一体どうやって内側をキープするのか、
と不思議に思っていたが、なんのことはない、
はなから内側の〝ここ〟でしかやっていなかった。
決断の主体で選び間違えていたからこれが起きていた。
そうなると、内側に留まっている方がラクに思えてくる。
それに、企業などの一般社会で実践していると、
嫌でも数をこなすので、静かな環境で学んでいる人より、
熟達度が半端なく加速化することは間違いない。
何しろ、次々来るので、赦しを休んでいる暇が無いのだ。
それで、最後には、
仕事でさえ起きてない、だって自分もいないから、
という所まで来る。
考えてみれば、フィギュアスケートの紀平選手だって、
休む間もなく、狂ったように練習しているから、
普通にトリプルアクセルが飛べるようになったのだ。
そういうわけで、
数をこなせる環境にいるのはラッキーだと言える。
なぜなら、自我の大気圏を抜けようとするとき
重力(向い風)に耐えながら実践する時期を通過する。
従って、日常で何の負荷も感じていない、ということは、
まだ地上に留まっていたいということなのかもしれない。
それはいわば、自分が乗ったロケットは発射され、
今頃は火星の辺りかな、と思って窓から外を見たら、
なんとロケットは発射すらしておらず、
自分の家が見えました、みたいな…。
これって、ホラーだよ。
全部、全部、この、眠った神の子の中でやっている。
〝ここ〟でしか起きていない。
しかも、神との分離は起こっていなかったのだから、
全ては夢で存在すらしていない。
その位置から、
神の愛を拒否する選択をした自分を潔く認め、
分離は起こってなかった、と、聖霊を選択し直す。
↑ 一匹の獅子が近づいてきて僕の頭を噛みに来た。
神にキターっ、と自ら食い気味に頭を差し出した。
もう、一日中、そんなことばかりしてるせいか、
仕事を終えて会社を出ると、
外側の世界のリアル感が完全に喪失してしまっている。
まるで、外側が夢で、内側が現実世界になったみたい。