定例財務報告会に参加するため、いま、大阪に来ている。
今世での僕の設定では、大阪が生まれ故郷となっているため
やはり、大阪の街を歩いていると、どこかほっとする。
ここなら、道端でどんな困ったことが起こっても、
必ず、周囲のおっちゃん、おばちゃんが助けてくれるという
意味不明な確信があるからだ。 知らんけど…。(笑)
↑ 紀伊国屋書店に来るのは何年振りだろう ↑
〝あなたと私は異なってはいない〟
〝与えることと受け取ることは同じ〟
個の自分(自己概念B)で実践していたときは、
意味不明だったこれらの言葉が、
決断の主体へと戻った位置から見てみると、
本当にそうだ、と当たり前のように理解できる。
どういうことかというと、この幻想世界では、
私とあなた、という分離した肉体が個別に存在し、
与えることは損失であり、獲得するには奪わねばならない
と信じられている。
しかし、決断の主体にまで戻ってみれば、
自己と他者にすら分離していないひとつの心こそが、
全ての投影(分離)の発生源だったことに気づく。
私が成功して、あなたが失敗しても、
あなたが100万円必要としていて、私が与えたとしても
あなたが騙して、私が騙されたとしても、
おおもとの問題は〝この一点〟にあるわけで、
見えている私とあなたにある訳ではない。
決断の主体の中では、
私とあなたはいつでも入れ替え可能であり、
与えると同時に受け取っていて、
もとはひとつであり、そこでしかやっていないのだから、
別にどちらが正しくても差し支えが無い、
結局、全て〝ここ〟がやっていること、
として捉えられてくる。
これを、幻想世界へと投影されたレベルで見てみると、
前世で成功したあなたが、今世では私となって失敗し、
今世で騙された私が、来世ではあなたとなって騙される
前世で韓国人だった私が、来世では日本人となり、
というふうに、私とあなたの物語が時間の中で展開される。
そして、この〝被害者と加害者とっかえひっかえ劇場〟
のループから完全に抜け出すには、
自我の思考体系から聖霊の思考体系へと、
方向転換し直す必要がでてくる。
それは聖霊の思考体系を選ぶということであり、
攻撃しない、咎めない、裁かない、怒らない、を、
この幻想世界に反映(実践)させることで達成される。
↓ 新・断固三兄弟の記事はこちら ↓
で、今回、大阪での会議中、聖霊と共に、ずっと、
上記の〝断固四兄弟〟を実践していた。
そのとき、面白いことに気づいた。
自分が傍観者となり人の話を聞いている時は、
聖霊を内側に実感できているのに、
自分が主客となり、何かを発表しているときは、
聖霊も決断の主体も忘れ去られ、心は無意識状態となる。
試してみていただくとすぐに解かるが、
聖霊を内に保ちながら喋るって、意外に難しい。
相手に何かを伝えよう(分かってもらおう)とした時点で、
意識を相手側(外側)へと強烈にフォーカスさせてしまい、
そのため、思考との同一化が起こる。
やはり、心へ向かうには、沈黙が不可欠なのだ。
そういう意味で、思考の逆転が進めば進むほど、
人は無口になってゆくのかもしれない。(俺はどうかな?)
会議の後、
フィリピンで一緒だった顧問(60歳/元外資系役員)と、
毎度おなじみ、梅田のKOHAKUで飲んだ。
隣に腰掛けている顧問を、
聖霊の反映として、聖霊と会話をするように話をする。
その瞬間、彼が話す言葉全てが聖霊の言葉となる。
「今日発表している時、緊張で意識が飛んじゃって。」
と僕が言うと、
「大丈夫だよ。君に何か問題が起こったら、
すかさずフォローするのが顧問の仕事なんだから。
分かったような顔をしてるけど、みんなおんなじ、
大したことないんだから、びびることはないよ。」
と顧問が答えた。
「自分が決めたことに後悔することはないよ。
だって、それは過去だし、今はもうないんだしさ。」
「一文無しだって、大金持ちだって、
最後はみんな死んで終わるんだから。
やるべきことをやって終わればいいんだよ。」
結局、相手を個の誰々さんと観るか、聖霊に変えるかは、
自分が決めているんだ、とわかる。
こうして、目の前の兄弟を聖霊として扱うことで、
咎めない、裁かない、攻撃しない、怒らない、
の実践がより容易となる。
だって、聖霊を攻撃しようというコース兄弟なんて、
絶対いないと思うから。(多分…)